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甘粕事件 その1

17日は阪神淡路大震災から27年でした。
日本はいつどこにいても地震に遭う可能性があります。
日頃から備えをしておきたいものです。

大正12年9月1日 11時58分44秒 相模湾を震源とする大地震が関東地方を襲いました。
世に言う関東大震災です。

その被害は甚大で、全壊・全焼家屋は31万棟を超え、死者・行方不明10万5千人、被災者は190万人と言われています。
関東大震災は地震と火事の被害が強調されますが、津波も発生して神奈川県では甚大な被害が出ています。

また通信手段が途絶してしまい、流言飛語が飛び交い、大勢の朝鮮人が殺害されました。
あまり知られていませんが、多くの日本人も異常な群集心理に陥った人々に殺害されています。

これらの事件がどうして起きたのか、当時の世情がどのようなものだったかを知らなければ理解することができません。簡単に当時の世情を記します。

大震災が発生した頃は、第一世界大戦後で日本は資本主義化を進めた結果、財閥は資本の蓄積に注力し、庶民は貧困にあえぐという格差社会が形成されていました。
それに対して政府は、明治以来の富国強兵を推進して財閥と手を組んでいました。そのような中で庶民の不満は募り、全国で米騒動が起きますが、政府はそれを官憲による弾圧でねじ伏せようとしていました。

一方明治の後半から盛んになってきた社会主義運動は、不満を持った庶民を味方に次々と政治結社が結成され、全国でストライキが頻発していました。政府にとって社会主義活動は許されるものではありません、このままストライキが横行すれば、財閥の力が弱まり、ひいては富国強兵が実施できなくなるからです。

こうして、官憲による社会主義者への弾圧が始まります。

良い、悪いは別として、国としては当然こういう手段を取るのは理解できるかと思います。今の日本とは異なり、民主主義国家とはいえ軍部が力を持っている時代です。

お隣の国を見てもわかるように、実際の主権が国にある国家は、国に逆らう反乱分子をとことん弾圧しないと国を維持できないのです。

震災の3か月前には共産党員を検挙しました。また、社会主義は国家を転覆させる恐ろしい思想だと宣伝し、庶民に社会主義は悪という意識を植え付けました。
これは一定の成果を収めて、多くの庶民は社会主義運動から距離を置くようになりました。

これとは別に、日本は明治43年に朝鮮を日本領土として併合しました。
朝鮮各地ではこれに反対する暴動が相次ぎ、その都度軍を派遣して鎮圧に努めました。そんな中で伊藤博文の暗殺事件も起きます。
朝鮮統監府の圧政によって苦しい生活を強いられた大量の朝鮮人労働者が、日本国内に入り込んでいました。

こういう事情を知っていた庶民は、朝鮮人が内心では非常な怒りを持っていると感じていました。
つまり庶民は朝鮮人に対して、罪の意識や、申し訳ないという気持ちがあり、負い目を感じていたのです。

こうした事情で社会主義者たちは、離れて行った庶民の代わりに朝鮮人労働者たちと手を組み、社会主義運動を活発化させていったのです。

このような世情を背景に、震災直後から
「混乱に乗じて朝鮮人が暴動を起こしている」
「社会主義者がそれを先導している」
「日頃の恨みを晴らすため、日本人を殺害している」

そういった流言飛語が飛び交い、多くの人はあり得る事だと思い、それを信じたのでした。

今回の主題から外れますので、朝鮮人の大量殺害事件については書きませんが、吉野作造博士の調査によれば、2,600人以上の朝鮮人が殺されたそうです。

官憲は、社会主義者がこの混乱の機会を黙って見過ごすはずがないと考え、震災後多くの社会主義者が拘束されました。そんな中、日ごろから社会主義者を憎悪していた、東京渋谷憲兵分隊長兼麹町憲兵分隊長、甘粕正彦憲兵大尉が、陰惨な事件を起こしたのでした。

甘粕大尉

つづく


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