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水戸頼房が娘に手を出したから、うっかり八兵衛が生まれた話

今日は先日の振り替え休暇でした。

休みとはいえゆっくりはできません。整形外科にリハビリの予約を入れてあるのです。
病院へ向かう途中、カーラジオから「武田鉄矢の今朝の三枚おろし」が流れてきました。

このラジオは、武田鉄矢さんが読んだ本を嚙み砕いて、面白おかしく紹介してくれるもので、長いものだと二週間にわたって続く事もあります。
以前は良く聴いていたのですが、最近は部署が変わって外に出る事も無くなったので、久しぶりに聴きました。

今日は何回か続いた話のうちの最終回の様でしたが、僕の知らない大変興味深い話でしたので、ちょっと紹介してみます。
メモを取っているわけでも無いので、曖昧な部分もあるかもしれません。
また、武田鉄矢さんが話の元にしている本が何かもわかりませんが、当然ながら事実では無い可能性もありますのでご了承下さい。

話は真田幸村が大坂夏の陣で討たれるところからでした。

幸村が一息ついていると、そこを通りかかった徳川方の兵に討たれます。
その時、幸村の背後から槍で突いて討ち取りました。
(一般的には西尾宗次が討ったと言われていますが諸説あります。また正々堂々と槍で渡り合った等の説もあり、幸村の最期は定かではありません。ここではラジオの話通りに進めます)

戦が終わり首実検が始まりました。
それを見た家康が「これは後ろから突いた傷ではないか」と見て取り、褒美を与えなかったそうです。

話は変わって、この夏の陣の直後からある噂が広まります。
・実は家康は夏の陣で真田の兵に討ち取られていた
・家康は影武者だ

家康は夏の陣の翌年に亡くなっていますが、それは影武者だったという噂が広まっていたのです。
それを裏付けるように、大阪には「家康の墓」であるとか「家康最後の地」があちこちにあるそうです。

理由は色々あるでしょうが、都市伝説的なものが広がって後付けで墓を建てたとか、九死に一生を得たような目に遭ったので、記念碑的に立てたのではないかなどが考えられます。

さて時代は変わって1967年、堺市は南宗寺に「家康の墓」が建立されました。
これを建てたのが三木啓次郎みきけいじろうという方です。

三木啓次郎の先祖は水戸徳川家の家臣でした。
水戸徳川家藩祖の頼房は奥女中の娘に手を付け懐妊させます。
それを知った頼房は堕胎を命じましたが、三木啓次郎の先祖(三木之次という人だそうです)はこれを聞き、娘を匿い生まれた子供は自分が引き取って育てました。
この子供が、後の水戸光圀なのです。

そんな事もあり、三木啓次郎は心から徳川家と水戸家を礼賛しており、南宗寺に伝わる家康伝説を知り、きちんと墓を改めたいとの思いで建立したそうです。

さらに話は続きます。

三木啓次郎は水戸を離れ大阪で町工場を経営していました。
三木啓次郎の工場の隣に松下君という良く働く少年がおり、絶対に売れると思う製品を開発したが、大量生産する資金が無いので融資をして欲しいと
頼まれます。
三木啓次郎は快く融資しましたが、その時に冗談交じりで「それが売れて儲かったら、そのお金で水戸光圀の事を世に知らしめて欲しい」と言いました。

みなさんお分かりだと思いますが、この松下少年こそが松下幸之助です。
そして見事成功した松下幸之助は、時代劇番組を制作します。
東野英治郎主演のナショナル劇場「水戸黄門」です。
松下幸之助はスタッフに「相手がどんなに悪い奴でも殺さないで下さい」と注文を付けたために、助さんと格さんは峰打ちか手刀で相手を懲らしめるというスタイルが確立されたそうです。

と、ラジオの話はここまでです。

知らない事ばかりで、話も面白く興味が湧きました。
ネットでチラリと検索したのですが、南宗寺にある家康の墓の裏には松下幸之助の名前が刻まれているようです。
また、隣で働いていた松下少年ではなく、偶然お寺かどこかで出会って、身の上話を聞くうちに融資したような記事もありました。

三木啓次郎と松下幸之助の話は、全てが事実では無いでしょうが、若い頃に三木啓次郎に援助を受けたり、その後も交流があったのは事実なのでしょう。

家康が夏の陣で討たれていたという事は無いとは思いますが、大阪のあちこにある墓や最後の地とやらは訪ねてみたいなと思いました。
(本当にあるのかは知りませんが、ラジオではそう言っていました)

三木啓次郎という名前は初めて知りましたが、この人がいなければ、うっかり八兵衛もいなかったわけですね。



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