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日本海海戦(5/11)

この記事は戦争について解説しています。
戦争礼賛、戦争賛美の意味で書いているものではありませんが、不快に思われる方、戦争に関する事に嫌悪感を持たれる方にはお勧めしません。
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-前回までのあらすじ-

頑なに旅順要塞への突撃を繰り返す乃木司令官に業を煮やした児玉源太郎大将は、現地に乗り込み指揮権を取り上げると、攻撃開始から3日で203高地の占領に成功しました。
これにより陸上からの砲撃で旅順艦隊は壊滅し、日本艦隊はバルチック艦隊との戦いに専念できる事になりましたが、陸軍の払った犠牲は大きすぎるものでした。

出港

ここで本国を出発したロシア第二太平洋艦隊の動きを詳しく見てみましょう。

1904年10月15日、ロジェストヴェンスキー提督率いる第二太平洋艦隊は、皇帝ニコライ二世に見送られてリバウ軍港を出港しました。

スカンジナビア半島の下の赤丸がリバウ

40隻以上の大艦隊で、乗組員は12,785名にものぼりました。

当時の船は石炭で動きます。そのため膨大な量の石炭が必要となり、艦隊の航海は石炭との戦いになります。石炭船も同行させますが、それで足りるわけはなく、予め各地の港に石炭船を手配しておき、港に入るたびに大量の石炭をスコップで積み込むのです。それは大変な作業でした。

この第二太平洋艦隊は新造艦を中心に作られたため、練度が非常に低く、そのため訓練をしながら航海するという状態でした。

疑心暗鬼

ロシアは各地に諜報員を雇い、日本艦隊の動向を監視させていましたが、彼らは報奨金目当てに、日本の水雷艇を発見したと世界各地から情報を送ってきたのでした。

ヨーロッパまで日本の水雷艇が出向く事は考えられませんが、ここで日英同盟が活きてきます。

イギリスに発注した水雷艇に現地に赴いた日本の士官が乗り込んで、夜襲をかけるという、ありそうな話として諜報員から報告が送られてくるのです。

出港して6日目の10月21日、諜報員からの情報で疑心暗鬼に陥っていたロシア艦隊は、イギリスの東海上100kmにあるドッカーバンクと呼ばれるあたりを航行していましたが、遅れて艦隊を追尾していた工作船「カムチャツカ」から水雷艇発見の発信がありました。

赤で囲んだあたりがドッカーバンク

直ちに旗艦が問い合わせると、四方から8隻の水雷艇が襲来しているとの返事がありました。
しばらくしてカムチャツカからは逃げ切ったとの連絡があり、危機は脱したかのように見えましたが、日付が変わるころ、今度は艦隊の前方に怪しい船が多数発見されました。

それは待ち伏せする日本の水雷艇だと思われました。

当時既に日本海軍の水雷艇と、それを使った夜襲攻撃は世界に轟いており、ロシア艦隊は水雷艇による夜襲に怯えていました。

やがてロシア艦隊は前方の怪しい船に砲撃を開始しました。

練度も低くやみくもに撃ったため同士討ちも発生しましたが、怪船を撃退する事に成功しました。

実はこれが大きな問題となります。

この日本の水雷艇だと思い込んでいたのは、夜間操業をしていたイギリスの漁船だったのです。不正確な射撃のおかげで漁船1隻が沈没し、4隻が大破するだけで済みましたが、このことは直ちにイギリス本国へ報告されました。

苦難の航海

日本軍を撃退し(と思っていた)、ドーバー海峡を越えたロシア艦隊は、フランスのブレスト港に寄港する予定でしたが、濃霧のため変更し、スペインのビーゴ港へ向かいました。

ところがスペインは日露戦争に関しては中立国宣言をしていたため、石炭補給の許可を出すのに一日以上かけたり、一艦あたり400トンまでしか石炭の補給を認めないなど、ロシア艦隊に対して冷たい態度をとりました。

これでは遠くまで行く事はできないため、やむを得ずジブラルタル海峡入口のタンジールへ向かう事にしました。

ところが、この時本国から電文が入りました。イギリスから漁船を攻撃した事に対してロシアに激しい抗議があったため、ビーゴ港で待機せよというのです。

イギリス艦隊は既にスペイン沖へ向かっており、もし出港すればロシア艦隊と交戦になるかもしれないというのです。

イギリスの漁船を砲撃した事について審議するため、パリで5か国が集まり国際査問委員会が開かれる事になりました。

日本軍の攻撃を受けながら、艦隊の到着を待っている旅順艦隊の為にも一刻も早く出撃したいところでしたが、ビーゴ港を出港できたのは、11月1日の事で5日間も足止めを食らったのでした。

11月2日にジブラルタル海峡入口のモロッコ領タンジールに到着すると、各艦に大量の石炭を積み込み、艦隊は二手に別れました。
本来ならスエズ運河を通過するのが最短ルートですが、水深が浅いため石炭を満載した大型艦では座礁する可能性があったので、小型艦を中心にスエズ運河を通り、大型艦中心の本体は喜望峰を回るという世界の海軍遠征史上に名を残す三万三千キロの大遠征となったのでした。

スエズを通過する支隊は11月4日に、本体は5日にそれぞれタンジールを出港しました。

12日にダカールに到着すると、早速石炭の積み込みを開始しましたが、フランス人の知事より中立国違反に問われるので石炭の積み込みは認められないと言われます。

ロジェストヴェンスキー中将はそれを無視し、熱中症による死者を出しながらも石炭を急いで積み込み、16日に出港しました。

旅順では乃木将軍が憔悴しきっていた頃です。

11月26日には赤道に近いガボンに寄港して石炭を積み込み、11月30日に出港。

12月2日に赤道を越えて、5日にグレートフィッシュベイに到着しました。

しかしここでもすぐに立ち去るよう冷たい扱いを受け、喜望峰へ向けて追われるように出港しました。

12月19日に喜望峰を越え、ついにインド洋へ入りました。

その6へつづく



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