VIVANT に感じた小さな違和感‐海外で受け入れられるために

私は今日本ではないアジアのとある国で生活している。日本のテレビ番組は私にとって欠かせない息抜きだ。半沢直樹ファンの私にとって、VIVANTは本当に面白いドラマだった。

しかし、最近ネットのニュースで、VIVANTは海外ではヒットしなかったという情報を見た。驚いたが、海外でVIVANTを見ながら感じた違和感を思い出した。確かに日本だけで見ていたら面白いが、外国人から見たら嫌なストーリーになっている部分はある。例として三つ書いてみる。

1.堺雅人が、イスラム教の祈りを大声でささげるシーン。このドラマは裏テーマとして多神教を信じる日本の心は美しい、というテーマがありそうだが、この部分は逆に一神教を信じる人にとっては理解に苦しむ描写に見える。製作者は阿部寛の反応で、「おまえのやっていることはイスラム教徒には信じられないのだろう」という一言でフォローにしたつもりだろう。しかし、もしアラーに向けてあなたは唯一の神、と祈るなら、イスラム教徒のように生活し、ラマダンでは断食し、他の神には祈らないようにするのが彼らの常識だ。本当に他宗教を尊重するというのは、真似事ででかい声で祈るのではなく、イスラム教徒の祈りの時間を邪魔しない、自分はイスラムではないのでその祈りをしないが、あなたの信仰を尊重する、という立ち位置でいることだ。そうでないと、イスラムの祈りを物まねしてバカにしていると思われてもおかしくない。

2.堺雅人が、お父さん一団と一緒に孤児院を視察し、お米に関する不正を発見するシーン。ここでお父さんベキが、こどものために美味しい日本米をいつも取り寄せている、というセリフがある。このセリフはアジア人にとっては邪魔である。なぜなら、粘りがある日本のコメは、いくつかのアジア国家ではあまり受け入れられない。ぱさぱさの炊き方で、油で揚げ煮したおかずを吸わせながら食べるので、日本米だと重すぎるのだ。仮に日本人の残留孤児のために孤児院を作っているという描写なら、彼らのために日本米を取り寄せているというのは美談だが、モンゴルをモデルにした舞台で日本米を取り寄せているのは、有難迷惑と感じられてもしょうがない。製作者は美味しんぼのタイ米の巻でも読んだらいいかもしれない。

3.ベキが最後にモンゴルの草原で部下たちに別れを告げて、去っていくシーンで、モンゴルの警察たちが一斉に土下座をするシーン。とても美しくて日本人的には感動する絵だが、しかし展開を考えると強引ではある。日本であっても仮に奨学金や孤児院でお世話になった理事長のような人が目の前に来たとして、お世話になった人にひざまずいて感謝しようと思うだろうか。おそらくお辞儀の感謝くらいはするかもしれないが、土下座はしないだろう。そしてこれを言い出したら元も子もないが、自分を助けてくれた組織が犯罪に手を染めながら慈善事業をしていたということを知ったときに、人はそこまでの感謝の念を保てるだろうか。自分を助けるのは片手間でやったことで、悪いことをして巨額の富を描いた人に感謝できないと思う人が大半ではないだろうか。慈善事業は悪を行なうための隠れ蓑、という前提での映画や小説はたくさんある。この最後のシーンは役所広司という役者が好きな日本人が見ると感動するシーンかもしれないが、非日本人には理解できないお辞儀である。少なくとも、対等の人に対する挙手による挨拶、位が受け入れられる妥当なラインではないかと思う。そして、アジア人が日本人にひれ伏す、というシーンを美しいと思うのは日本人だけだろう。また、宗教的な感情から、神ではなく人間にひれ伏す、という感覚を受け入れない民族は多いはずだ。

今思い出せるのはこれくらいだ。日本人に受ける内向きの感覚のドラマを作り続けるか、海外の人から見て面白いドラマを作るのか。もし海外にも受けいられるドラマを作りたいなら、ますます製作者の客観性が求められるだろう。

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