カズ・ハヤシの開拓者魂

ヒューマン・ドキュメントストーリー

 カズ・ハヤシの30周年記念大会が来る11月23日、GLEATの東京・後楽園ホール大会で開催されます。当日のハヤシの試合カードは素顔のカズ・ハヤシで藤波とシングルマッチを。そして、獅龍に変身してサスケ、HANZOとのトリオで人生、デルフィン、TAKA組と対戦する。まさに、ハヤシの歴史を感じさせてくれる試合!がラインナップされました。
 で…今から21年前(歴史読み物ですね)、週刊ゴング(廃刊)誌の人気企画(自画自賛)だったヒューマン・ドキュメントストーリーでカズの半生を紹介させてもらっています。
 当時の原稿(ヒューマン・ドキュメントシリーズ)引っ張り出してきました。
 初代タイガーマスクでプロレスと衝撃的な出会いを果たし、レスラーを目指し、ユニバからみちプロ、メヒコを経てWCW、そしてWWF(現WWE)と契約する2001年までの開拓者カズ・ハヤシの歩み(フロンティア・スピリット)を紹介しています。23日、後楽園記念大会の事前ガイドの一つとして役立てていただければ幸いです。

WCWからWWFへ

カズ・ハヤシのフロンティア・スピリット

 己の未熟さと可能性を知るために挑戦したメジャーリーグの世界。そして、WCWと契約する唯一の日本人レスラーとなったカズ・ハヤシ。だが、21世紀、ハヤシに届いた便りはWWFによるWCWの買収だった。

 

掲載時、本文表紙は大川カメラマンの特写で”渋いカズ”を表現してもらいました。

たった一人の旅立ちだった。
97年、その男は“獅龍”という名前とマスクを捨て素顔となって、自分の未熟さと可能性を知るために敢然と世界に挑戦を挑んだのだった。
「世界に出なければ世界を知る事は出来ない。佇んでいるだけでは、それはいつまでたっても夢の中の世界でしかない。
 勇気をもって一歩足を踏み出せばそれが自分の手に届くかどうかも実感出来る。」
 そして踏み出した男を待ち受けていたものは“レスリングの壁”は勿論。それ以外にも“言葉、人種、生活習慣などなど”
本人が想像する以上に高く厚い壁だった。
 そして、21世紀。所属のWCWはWWFに買収され、14年の歴史に幕を下ろした。しかし、「この地にやり残した事がある。」と米国での戦いを継続する事を宣言した。
その男の名前はカズ・ハヤシ。
173センチの小柄な男のメジャー挑戦の半生がここにある。

■サッカーからプロレスへユニバ一期生として入門■
 
カズといえば日本ではサッカーの三浦カズを想像するのが一般的だろうが、マット界のカズも負けてはいない。アメリカWCWに所属する唯一の日本人メジャーリーガーである。
カズ・ハヤシこと林和弘は昭和48年5月18日、東京都世田谷区で父・司郎さん、母・美和子さんの次男として生まれた。
 ハヤシは小中高とサッカー部に所属。世田谷区立代沢小学校、富士中学校時代はキャプテンを務めチームを牽引した。
 また、足技だけでは無く、腕相撲も滅法強く、自分より体格のある相手をことごとくねじ伏せていた。
 当時は“ビーバップ・ハイスクール”が流行。いわゆる、ツッパリ・ブームの時代だった。
 ハヤシはクラスの多くがボンタンやリーゼントで決めて、その気になっているのを横で醒めた目で眺めていた。
 そこには当時から流行に左右されない頑ななハヤシの姿が見て取れる。
 プロレスとの出会いは明正高校2年の春だった。
 プロレスに全く興味を示していなかったハヤシだが、この頃のクラスの話題はプロレス一色だった。
 頑固なハヤシもクラスの話題を独占するプロレスというものを取り敢えず見ておこうとチャンネルを合わせたのだった。
 そして、それがハヤシの人生を左右するものとなったのだった。ハヤシをプロレスの虜にしたのは初代タイガーマスク(佐山聡)だった。
 それからというものの、ハヤシの将来の夢はサッカー選手からプロレスラーに変わったのだった。
「キックの練習はボールじゃなくなりましたね」(笑)
 青春を謳歌しているような高校時代だが、林家に暗い影が忍び寄る。
ハヤシが高校を卒業する直前に、父親が不況の煽りを受けて、会社から解雇を言い渡されてしまったのだ。
 しかし、父・司郎さんは只では転ばなかった。勤めていたのは測量機メーカーだった。「不況で機械が売れないなら、買い替えもままならないはず、それならば修理する機会が増えるはずだ」と踏んだのだ。
 司郎さんは解雇をバネに発想を逆転させ、測量機材の修理会社を興したのだった。プロレス流にいえば、まさに風車の理論といったところか。その読みは見事に当り、林家は経済危機から見事に脱出したのだった。
 後述するが、この発想と行動力、その遺伝子はやはり、ハヤシにも受け継がれていた。
 91年3月、ハヤシはユニバーサルの新弟子募集の記事を見つけこれに応募する。
 この時、ハヤシとともに同じ夢を抱いて、試験を受けたのが、TAKAみちのく、ヨネ原人(引退)、薬師寺正人だった。
 両親はハヤシが当然、大学へ進学するものとばかり思っていた。突如、ハヤシからユニバ入りを告げられ言葉を失ったのだった。
両親の反応は当然の如く反対だった。
 ハヤシは渋る、両親をこう説得した
「兄貴は大学に行ってるけど、僕はプロレスがやりたいんだ。大学に入れたつもりで4年間だけやらせてもらいたい。それで結果が出なければキッパリと諦める」
 期限付きながら親の承諾を得たハヤシは91年4月から毎週水曜日に目黒にある全女の道場で行われるユニバの合同練習に参加し始める。
こうしてプロへの長い階段の一歩を踏み出したのだった。
しかし、身分は給料の出ない練習生待遇でしかなかった。
ハヤシは食いつなぐため、世田谷区内にあるメキシコ・レストランで働き始める。
「自分の場合、実家が東京だったんでね。その点はタカちゃんたちより全然、恵まれてたと思います。でも、僕も彼らと同じくらい精神的にハングリーでしたよ。4年間の期限があったんで」

■デビュー戦で胸骨骨折も深夜のバス移動で大阪へ■
 
 ハヤシのデビュー戦はその年の11月19日、東京・後楽園ホールで行われた。控え室で新間代表から渡されたのがあの白いマスクで、リングネームは獅龍だった。
 記念すべきデビュー戦。獅龍はテリー・ボーイと組んで今や伝説のモンゴリアン勇牙、バッファロー張飛組と対戦したのだった。
 この試合で獅龍はいきなり胸骨骨折の負傷を負ってしまう。
強度の打撲だろうと、シップ薬を張って痛みに堪えながらリングを撤去、翌日に予定されていた大阪大会のため他の選手とともに深夜のバス移動をしたのだったが、路面から伝わる僅かな振動も胸の痛みとなっていた。結局、熟睡出来ないまま大阪に着いたのだったが、獅龍はそのまま帰京し、都内の救急病院に駆け込んだのだった。   
診断の結果は前述のとおり全治1ヶ月の胸骨骨折だった。

■二度に渡る眼底骨折が旅立ちを決意させる■

 1ヶ月後、現場に復帰した獅龍はルチャの師となる、ケンドーと出会う。
試合前のリングにはケンドーの教えを請う獅龍の姿が必ずあった。
 この手ほどきのお陰で、あのパフォーマンス“欽ちゃんジャンプ”を会得したのだった。また、マスク作りも同じくその道のプロでもあるケンドーの手ほどきを受け、自分の手でミシンを掛けるようになる。
 初期の作品は、全くと言っていいほど使い物にならないものばかりだった。それでも20~30枚くらいからコツを掴み、使用に耐えるマスクを縫い上げられるようになったのだった。
 こうして獅龍もルチャの醍醐味と奥深さ、そして楽しさを実感し始めた、その矢先にユニバーサルは崩壊を向かえてしまう。
 獅龍も迷わず、みちのくプロレスに参加する。この、みちのく旗揚げ当初、選手不足から獅龍は別の名前で1日、数試合こなす事もあった。
だが、みちプロファンは見て見ぬふり、獅龍も暖かいみちのくファンに助けられ勇気づけられた一人だった。しかし、自分の試合に関して言えばフラストレーションが溜まっていた。
「楽しいだけではいけない。激しさを持ち込んで、みちプロを活性化させる。」
そして結成されたのが平成海援隊だった。獅龍もイメージを変えるためマスクも一新させたのだった。
 サトー(ディック東郷)と組んだ獅龍は、そこからプロの姿勢を学んだのだった。
 94年には憧れの新日本プロレス仙台大会に8人タッグながら出場を果たしたのだった。 この試合で獅龍はライガー相手に欽ちゃんジャンプを披露。ライガーも思わずつられてジャンプしていた。
 記念すべき初戴冠は95年6月、郡山で師ケンドーから奪った中米ミドル級選手権のベルトだった。
 この試合で獅龍はコーナーポストの金具の間をすり抜ける高速トペを初公開している。
 勢いに乗る獅龍も、怪我に泣かされる事の多い選手の一人でもあった。
 第1回ふくめんワールドリーグ戦の山形大会で星川のギロチン・ドロップを顔面で受けてしまった獅龍は 目を眼底骨折。またも戦線離脱を余儀なくされてしまったのだった。
 一方、海援隊はTAKA、船木が入ってますますパワーアップしていったのだった。もはや、海援隊はみちのくプロレスに無くてはならないものになっていた。しかし、獅龍は海援隊が注目されればされるほど、そこに違和感を感じずにはいられなかった…。
「組んでいても本来は個人の戦い。俺のやりたかった事は果たしてこれだったのか?」戦いは熱いのに、自分のモチベーションが下がって行くのが分かった。

■二度目の眼底骨折を機に、ひとりの旅立ちを決意■


屈託無い笑顔を見せてくれる武藤とカズ。充実感が伝わってきます。

 そして97年3月、獅龍に決定的なアクシデントが降りかかる。
舞台は仙台市郊外、秋保温泉大会での事だった。獅龍はTAKA、船木と組んでサトー、半蔵、テリー組と対戦した。海援隊対決である。この同門の激しい戦いで獅龍は再び眼底骨折の傷を負ってしまったのだった。
三度目の戦線離脱を余儀なくされてしまった獅龍に追い討ちが掛けられる。『仮病なんじゃないか』という言われ無き誹謗と中傷だった。
獅龍には誰かを蹴落とすという発想は無かった。チャンスは平等でそのチャンスを生かすも殺すも、それは自分次第だと思っていた。しかし、現実を改めて突きつけられた時、獅龍の中で何かが弾けた。
「つらいこの時、本当の友達が誰かわかった。一生忘れられないかもしれない」獅龍のこれまで歩んだ人生で心身ともに追い詰められ、また最大の選択を迫られた時でもあった。導き出した答えは「自分のやりたい事、信じる道を行く」だった。
 サスケには日本を離れる事を相談した。サスケは獅龍の意を汲んでメキシコでのルート紹介を申し出てくれたのだが敢えてそれを断ったのだった。
「人生のリセットですから」3ヵ月後、傷が癒えるのを待つように獅龍はマスクを捨て、素顔に戻り、たったひとりでメキシコへと旅立ったのだった。
 旅立ちの日、獅龍の顔は憑き物が落ちたように晴々としていた。それは怪我が完治しただけでは無い。その心の中に、再び大きな希望の夢が膨らんでいるからこその“いい顔”だった。
 メキシコ入りしたハヤシはイダルゴ地区に建つペンション・サンフェルナンドにまず旅装を解いた。
そして素性を隠したまま市内のハム・リー・ジムに入門。
チャンスを待って、プロモ・アステカに売り込みを掛けたのだった。
基礎の出来ている新人に関係者は驚きを隠せなかった。ハヤシは観光ビザで入国していたため、そのままでは違法就労になってしまう。関係者はただちにハヤシの就労ビザ取得に走ったのだった。

■メヒコからWCWへ大きく開いた夢の扉■

 デビュー戦はナウカルパンだった。リングネームはハヤシを意味するスペイン語の“ボスケ”だった。
そして、いかにも急いであつらえたと思われる仕上げの粗いマスクを渡されたのだった。額には丁寧にも日本の国旗が縫いつけられていた。
「こんな事なら獅龍のマスクを持って来れば良かったかな」被り心地が決していいとは言えないマスクにハヤシは苦笑するだけだった。
 この後、ハヤシはプロモの道場の2階に引っ越す。家賃は月500ペソ。練習と試合の毎日が始まった。
 この頃、一度だけ新日プロからハヤシへのオファーが入るのだが道場に住むハヤシへ、行き違い(メヒコらしいが)連絡が届かなかったため、ハヤシの新日出場の話しは何時の間にか立ち消えになってしまったのだった。
 そしてメキシコでもハヤシは事件に遭う。何者かに自室に置いていた鞄をこじ開けられ、日本から持参した全財産12万円をそっくり盗まれてしまったのだった。
 外部からの侵入の形跡後も無く、状況は内部犯行以外考えられなかった。犯人はすぐに割れた。   
 問い詰めるハヤシ、そのホシの言い訳は「オレじゃない。でも、お前がポブレシート(可哀想)だから代わりにオレが盗られたお金の肩代わりをしてやる」というものだった。その奇特?いかにもメヒカーノなルチャドールの名前はベヌムという。
 ハヤシもそれ以上追求も警察に届ける事もせず、ベヌムの厚情?を賜ったのだった。したがって、事件も無かった事となったのだった。
 この一件がきっかけではないがハヤシはさらなる飛躍を求めてアメリカへの道を模索する。その際に尽力したのが本誌・清水勉とウルティモ・ドラゴンこと浅井嘉浩だった。
 98年3月、ハヤシはWCWのトライアウト(テスト)をサンフランシスコで受ける。テストはいきなり実戦だった。相手を務めてくれたのもドラゴンだった。
 これに合格したハヤシは翌日のナイトロにいきなり出場を果たす。リングネームはカズ・ハヤシ。念願の素顔による3度目のデビューだった。
 翌日、ハヤシからWCW採用とお礼の国際電話が清水勉に入る。しかし清水は「浅井と同じ体格で、その実績は圧倒的に少ないハヤシが、果たして弱肉強食のメジャーのリングで生き残れるのか?アッという間にダイナソーのような連中に潰されてしまうのではないか?」浅井にハヤシを紹介した事が果たして良かったのか?正直なところ、ほんの少しだが後悔もしていたのだった。だが、それは杞憂に終わるのだが、あの時、一体、誰が現在の活躍を予測出来ただろうか。
 ハヤシのメキシコとアメリカを往復する生活が始まったが、この年の7月に正式なワーキング・ビザを取得。これを契機に住まいをジョージアへと移したのだった。
 住まいはマリエッタ市、USオーヤマ・カラテの高橋勤氏が住むアパートの一室だった。ここにはハヤシより先に米国武者修行中だった新日プロの永田裕志も住んでいた。ハヤシにここを紹介してくれたのも永田だった。
 引越しの翌日から早速、永田との練習が始まる。そのメニューは基礎練習が中心だったがハードそのものだった。基礎が出来て初めて応用が利く。当たり前の事であり忘れてはならない大切な心構えを改めて異国の地で教わったのだった。
「新日スタイルを叩き込まれた気がしました。あの時の経験が間違えなく今の僕の血となり肉となっていますし、自信の源泉のひとつでもありますね」
 翌年の6月には新日プロのスーパージュニアに参戦して高い評価を受けたのだった。
 10月にはWCW代表の肩書きで再び新日プロへ。

 ■1年間の肉体改造に着手、そしてWWFと契約更改■

 

自信溢れるカズ。西部劇の敵役の風貌も生き方はまさに開拓者のそれ!

米国内の試合プラスアルファのこうした活躍でハヤシはWCWにおける自分の居場所を獲得したのだった。
 サーキットは南部フロリダを拠点にニュージャージー、南北カロライナに遠くはカナダまで、その移動距離は半端ではないが、この生活に音を上げるようではメジャーリーガーは名乗れない。
『日本人だから重宝されているんだろう』といったジェラシーの声もハヤシの耳に入って来るが、そんな時は自分の試合を見せ、その偏見を払拭し信頼を勝取って見せるのだった。
 中でもスコット・ノートンとの対戦は忘れられないという。
「パワーボム一発で玉砕でしたよ。でも気持ちは通じ合えたようです。」
 この対戦以降、ハヤシはノートンのホームパーティーへも頻繁に招待されるようになったのだった。
「相手をリスペクトして初めて自分もリスペクトを受けるんですよ。そこに打算は存在していません」
 また、ハヤシはクリス・ベノワからも多大な影響を受ける。
 98年から99年の春先に掛けてハヤシはクリスとサーキットを共にする機会に恵まれた。その間、クリスのトレーニングから肉体管理に至るまでを学んだのだった。
「最初の1ヶ月で脂肪が取れましたね。」ハヤシはおよそ1年間に渡る肉体改造に取り組み、その結果、見事に腹筋が縦割りしする成果をものとしたのだった。
 クリスは肉体改造だけではなく精神的な支えにもなってくれたという。
 クリスも異国の地、日本で苦労を経験しているだけに、ハヤシがアメリカでぶつかっているであろう苦労の数々を心配して日本語と英語を織り交ぜながら様々な相談に乗ってくれたのだった。
 確かに私生活ではレストランなどでもオーダーを取りに来てくれないなど偏見を感じる時もあるが、それも一部の人間のやること。クリスのように暖かい“外人”がいる事でハヤシには何の苦にもならなかった。
 第3回Jカップでは浅井の推薦を受けて出場する機会に恵まれたものの1回戦でサスケに惜敗したためアトランタ―成田-仙台―成田―アトランタのトンボ帰り。わずか48時間だけの日本滞在となってしまったのだったが、こんなハードな移動を平然とこなすのだから、ハヤシも立派なメジャーリーガーの一員である。
 昨年は武藤敬司との遠征を共にする貴重な経験もしたのだった。
「2人ともブッキングされていれば移動は必ず一緒でしたね。武藤さん、ロングドライブも慣れているみたいで『俺にもハンドル握らせろよ』って気軽に運転を交代してくれるんですよ。スーパースターなのに、全然、”ぶらない”んですよ。荷物なんかも自分で持って。昔、ボク武藤さんが主演した“光る女”のロケ見に行ってたりしたんですよ。だから武藤さんは自分にとっては雲の上の存在でした。
 自分が言うのもおこがましいんですけど武藤さんはアメリカの生き方とか苦労を全て分かっていますよね。」
 人種差別主義者と噂されたビンス・ルッソー政権下でもハヤシは変わりなく活躍の場が与えられた。エリック・ビショップの復権後も、そのスタンスは変わらなかった。
 そして、21世紀。ハヤシを待っていたのはWCW崩壊だった。経営難から2001年3月26日(現地時間)のフロリダ州パナマシティでのナイトロ大会を最後に14年間にわたる歴史にピリオドが打たれたのだ。
 ハヤシも最後のナイトロに出場していた。試合はクルーザー級タッグ挑戦者決定3ウェイ戦だったが惜しくも有終の美を飾る事は出来なかった。
 ハヤシの契約は今年の7月に更改の時期を迎える。WCWを買収、新たに親会社となったWWFから3月30日、ハヤシのもとに契約書が届けられた。ビジネスによりシビアな目を持つWWFの目にハヤシは止まったのだ。
 内容はWCW所属時の条件をそのまま継続するもので、ハヤシには満足の行くものだった。そして、ハヤシは迷わず契約書にペンを走らせた。サインの入った、その契約書を眺めながらハヤシは運命というものを感じずにはいられなかった。そしてその運命を自然に受け入れられる自分の存在を感じていた。
「でも受身では生きているわけじゃないですよ。自分の仕事は戦う事だし、自分の人生、生き方を切り開くためには、いい試合をすれば、どうにでも変えられるんですよね。反するようだけど、だから運命っていうのは変えられるんですよね」
 このハヤシのポリシーからは肉親の遺伝子を強烈に感じずにはいられない。
 ハヤシから筆者にメールが届いた。
「WCWの名前は残るみたいです。自分の感覚では大量解雇と、ボスがシェーン(マクマホン)になっただけに感じます。だから、自分に出来ることは、会社が何を望んでいるのかを考えて、その中で今まで通り、地道にがんばるだけです。まだ、やり残したことがあります。暫く、日本に帰るつもりはありません」
 日米の文化や意識の違いを理解しながら今、何が望まれているのか?それを常に考えて行動しようとするハヤシ。それは今まで歩んできた様々な経験を自分の中で消化した結果、導き出した答えだった。
そして、そのハヤシの考えはなにもプロレスに限ったことではない。生きるための基本なのかもしれない。
 取材をした当時のハヤシの風貌はアゴ髭をたくわえ精悍さを増し、西部劇に出てくる敵役のそれにソックリだった。しかし、ハヤシの生き方は紛れもなく、米国人が好きな、開拓者のそれなのだ。

※文中

20周年の節目にはサスケ、SATOとのトリオを。
ルチャフェスタでも超豪華なトリオに名を連ねた。

では各時代に沿って、カズ・ハヤシの表記を獅龍、ボスケ、ハヤシとしています。

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