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写真のことが分からない話

別れた恋人にもらったカメラが手元にある。

私たちは正直あまり会話が弾まないカップルだった。なりゆきで付き合ったというか、単にお互いにとって恋愛ごとのリハビリじみた試行でしかなかったと言ってもいい。そこでおそらく何か共通の趣味のひとつでもあれば変わるのではと考えて取り出されてきたのがそれだったのではないかと思う。

その人の家の近くの公園をぶらぶらしていたときに「使ってみませんか」とカメラを渡されたのが秋だった。

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だから最初はもみじの写真から始まった。
色のある写真も撮ったのだがこのあたりが自分では好きになった。途中でマクロレンズも貸してくれて、その鮮明な視覚が楽しくてやたらに寄った写真を撮った。

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しかしそれでなにかが変わったかと言えばそんなことはなかった。そうなるだろうと思った通りに。ただ話が盛り上がらないままに黙々と歩くのが、撮影のために出かけるという題目に変わっただけであった。そういうふうに過ごすのも別に嫌いではなかったが、好きだというわけでもないのだった。借りたカメラはいつのまにか私のものになった。一人で出かけるときにも時々それを持って出かけた。LINEでも弾まない会話のかわりに、そうして撮った写真を送りつけたりもした。
ただ、なにせ降ってわいたカメラだったので、ついぞ私はきちんとした勉強というものをしなかった。撮った写真を見返すのは好きだった。記憶よりも美しかったり記憶のほうが美しかったりした。一番最初に撮った写真が一番良いと思ったりもした。一方相手は道具としてのカメラを愛していて、その性能や手入れについては情熱があったが、生み出される写真のほうにはそれほど関心がないようだった。つまりは、そういう具合であった。

その後その人と別れるときにカメラは私の手元に残された。
そういうわけで私はいまでも、カメラのことは特によく知らないまま写真を撮っている。

(781字)

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