デデデデは誇張した我々のキモさを全面に見える映画、ヒューマンドラマ版時をかける新世紀サマーウォーズ前前前世だ
先日、デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション(以下デデデデ)の後章を見に行った。前章の後半から急速に近づく不穏に、立ち向かう良い話だった。
少しだけ思うところがあるために、思ったことを適当に書いときたい。ちなみに、この引きのあるタイトルは一切回収しない。だが、この映画を一言で表すには丁度いい感じだ。多分。
あまりにも映画館に足を運ぶ人が少ないと言う話と、前章と後章、そして漫画とのエネルギーの違いがすごいと言う話である。
人がいなさすぎてビビる、でも小学生はいた
燕三条まで電車を乗って、イオンシネマに行った。
ここで一つだけ言いたいことがある。越後線の電車が(特に吉田へ行く方向)便の悪いことこの上ない。普通の顔して一時間に一本である。下手したら普通に乗り換えで一時間半くらい待たされる場合がある。公共交通機関として欠陥である。早急にJRには修正してほしい問題点だ。
映画館で映画を見るとき、やらなければならないのは映画チケットの発行である。私は前編、後編とどちらも上映を見に行ったが、そのどちらもガラガラ、人がいなすぎる。
今の発券機というのは、全面デジタル化、タッチパネルで席を指定できるという良い時代になった。自分の年齢を選び、希望の席を選んで、1000円程度支払えば、チケットが発行される。
デジタルに移行するときに、どれだけ我々に寄り添ってくれているデザインかどうかということが一番の問題だ。PCでHTMLをいじったり、画像編集ソフトを使った人間ならば、UIや画面構成に気を遣ったことがあるだろう。
発券機であれば、「席が空いているか、空いていないか、客フレンドリーなデザインは何だろうか」という点が一番の問題になりうるだろう。
今回のケースは「既にその席が取られていたら灰色っぽく、まだ空いていたら別の色にする」という作戦が正しい気がする。実際に、イオンシネマでは「埋まっている場合は灰色、空いてたら白」という方策がとられていた。一般に、人間というものは灰色のほうがもう無い(対応していない)方だと感じるのだ。
券売機を見れば、2席以外すべて白色だった。ほぼすべての席に座れるというわけだ。ただ、デデデデは「漫画としては最高の作品で、映画にも期待が高まる」(世評、友人談)ということは聞いていたので、そんなわけはないと思った。
そもそも、白い色というのは、実際にはない。すべての光の集合店に表れて、光があまりにも反射したがために見えてしまう色が白である。
つまり、本当に自然な色というものは灰色であり、この点でいえば、灰色の席こそが空いている席といえるのではないか。人為的に作られた白こそが、我々が否定的になるべき色で、高潔さなどないのである。
…結論から言えば、そんなことはなかった。前述したとおり、イオンシネマは白色が空席で、灰色が満席なのである。上映開始から一週間は経ってたし、この日は正午12時から、昼飯時の上映だったために、見に来る人が少なかったのだろう。そうに違いない。だって、デデデデは最高の映画(らしい)なのだから。
シアターN番(Nは適当な自然数)に入った我々は、ポップコーンを食べながら、映画館特典であるポストカードサイズのイラストを眺める時間を送った。私は漫画を見たことがなかったので、このイラストで「メガネの子と、ツインテの子のダブル主人公なんだろうな」と漠然と思いながら、ちょっと見てみたくなる映画の広告を見た。
(トーマスの広告が流れた瞬間、少し盛り上がった。)
映画を見た後だから言えることなのだが、デデデデは結構キワどいことを描写する映画だった。「手も足も出ないなら、おっぱい出せ」「もうセックスしたのか」こんなことを言っていた。そんなことは棒にも箸にもかからない話なのだが、上映終了後に見渡すと、おばあちゃんと一緒に来ていた小学生の女の子がいた。
マジかよ。知らなかったにしろ、家族とこの映画見るの絶望としか言いようがない。どう間違っても、おばあちゃんと見れるわけがない。というか、さっきの2席埋まってたのこの人らなのか。上映後まで、この映画は楽しませてもらったのだ。
心労が凄すぎる、エンドロールで感情がグチャグチャ
この映画を知る前に、友人の話に上がっていたのは「おやすみプンプン」だ。この映画の原作者、浅野いにお同氏が描いていた漫画である。要は、デデデデよりもよりリアルに、もっとディープに、我々が生きる現実のイヤーな部分を誇張して描いてくれる漫画がおやすみプンプンだ。
(5巻くらいしか読んでいないし、これ以上読める気もしない。)
デデデデは、丁度いいポップさだった。
映画全体の構成として、二つのシーンに分かれる。
「人間そのものを描く嫌悪シーン」「門出&おんたんの青春日常シーン」
交互にこれが描かれる。
受験を控える高校生である門出・おんたんが、その友人と共にいっぱい遊んでいたと思ったら、ボケっとした顔の首相が大事そうな話をするシーンに切り替わるのだ。彼女らが卒業パーティーをしている最中に停電したと思ったら、宇宙人を打ち落とすシーンになるのだ。
この緩急こそが、この映画を見続けるモチベーションにつながると思っても良い。広い世界では不穏なことが起こっているが、彼女らの青春は止められないのである。決して、彼女らを止めることはできないのである。だから、日常パートは3000倍安心して見れた。
具体的に、嫌悪する理由は何だろう。それは大人たちの策謀と欺瞞こそにある。彼女たちが見ている青春という狭い世界では、いつも楽しいことが起こるし、笑いあえる。だが、映画として見ている我々は、彼女たちの青春を断片的に見ていた。半分が青春だとしたら、もう半分は気持ち悪い広い世界だ。自分本位の意見をただ吐き捨てるだけ、権威・権力は肩書通りには執行されない。浅野いにおが的確に誇張して描く、社会のクソな部分が本当に気持ちが悪いのだ。実際の現実もこんな感じなのに。人間とはこれだけ気持ち悪いんです、というものを突き付けられて嫌悪してしまった。どうして気持ち悪いのか言い表せないが、同族嫌悪的な部分があるのだと思う。
映画では、門出とおんたんがその広い世界に目を向ける場面がある。気持ちの悪い、自分たちが考えていた理想の世界とは全くことなる現実を知ってしまうのだ。そんな時、我々ならどうするだろうか。ただ純粋に、子供ながら共有していた狭い世界が楽しかったがために、そんな現実を知ってしまったら。私は世界に絶望するだろう。だが、絶望したとて、何かするわけでもない。ただ、そのクソな現実を受け入れて、その中で最大限面白く生きるかを考えるだけだ。
門出は(おんたんは)違う選択をした。現実があまりにもクソだと感じてしまったがために、社会を変えようとしたのだ。少しずつ、少しずつ、社会悪を粛正していくうちに、一つ学ぶ。「自分一人だけがどうにかしてどうにかなる問題ではないのだ」と。だから、自分がその世界に生きることを一度諦めてしまったのだ。
ちなみに、今までの文章は前章を極めて抽象的に解釈した私の意見だ。
この映画は、暗喩だか換喩だとか、考察する余地はない。直で、そのものを浴びることになるのだから。
後章は、「ヒューマンドラマ嫌悪感シーン」「青春シーン」に、「SF問題解決アクションシーン」が加わる。前章からしたらありえない速度で、ストリーラインが動き始める。
後章は門出、おんたん、大葉のトリプル主人公である。
大葉も、この映画のストーリー上では非常に重要なキャラクターだ。人間と宇宙人の架け橋となって、デデデデのストーリーを終わらせる。後章は、大葉が主人公と言ってもよい。
そういえば、後章ではあまり人間の気持ち悪さの印象がない。何故かはわかる。怒涛すぎる展開に頭がついていけなかったからだ。
前章では人類滅亡まで1年だったのに、半年・1か月・1週間・24時間・2時間と、カットシーンを経れば経るほどに人類滅亡までとんでもないスピードで我々に近づいているのである。
デデデデの凄い部分だ。我々だけに人類滅亡までのカウントダウンを伝えてくる。普通のSF映画ではネタバレといってもいい。人類が滅亡することが決定してしまっているのだから。そんなカウントダウンを、伏線とかなんでもなく我々に見せてくるのだ。その事実を知らないまま、主人公たちは青春を送るのである。非日常の中にある日常に見える非日常。
前章ほどの深いメッセージ性は感じられなかった。やはり展開の怒涛さについていけなかったのも一因だが、それ以上に、解決編という感じの展開だったことがあげられる。ストーリーがとにかく進むのだ。平行線をたどっていた宇宙人との関係性が、人間の社会と完全に交錯する。人類滅亡は嫌だ、という大葉が、おんたん含め主人公たちとどうにかする話だ。だから、メッセージ性は感じる暇がなかった。
エンディングだ。あの、やるせなさ。解決編と言ってみたが、実際には解決はしない。それはハッピーエンドではない。だが、救いはあった。これは、映画を見た後に原作を読んでみた私の所感なのだが、原作よりは圧倒的にハッピーだった。というよりは、原作はあまりにもバツバツに切ってくる。料理番組をしていたら隣で爆発する、みたいなくらい違和感のあるストーリーの遷移をし始めるのだ。作者も飽きてきたんじゃないかとすら思ってしまうくらいだ。だから、映画版は非常にコンパクトにまとまっていたんだなぁと思う。東京は一瞬にして更地になるけど、後片付けはない。家族を一瞬で失っても、二週間後には元通り、いつもの生活を営むのが人間だ。本当に人間が気持ち悪いんだなと気づかされる宇宙人視点のシーンで、当たり前がわからなくなる映画だった。エンディングを迎えて、スタッフロールが流れている中、感情が渦巻いてグチャグチャになって感動してないのに泣いた。
この映画にはメッセージ性があると思う。だが、浅野いにお自身はただ「キモイなと思うことを素描しただけ」にすぎないのかもしれない。ただ観察して、誇張して描いただけと言ってもいいくらい、正確に人間のキャラクターを描いていた。だが、それだけでも、我々は考えさせられるのである。感情を揺さぶられるのである。自己啓蒙せざるを得ない映画に、私は感動した。
最後に:門出とおんたんは絶対だったのだ。
余談:頭によぎった最悪のシナリオ
ネタバレだが、この映画に出てくる宇宙人は人間の顔をしている。正確には、ファンタスティックプラネットのような青い肌をした人間の顔。そして、シフト前の世界で軽く触れられていたこと「侵略者はもともと地球の人間だ」的なことの言及。(多分言っていたと思う。)これは、SFとして非常によくできたシナリオだ。本当は人間のほうが侵略者で、彼らはが地球を取り返しに来ただけにすぎない。SFだけじゃなく、最近の作品はこのカタルシスが多い。「本当の悪役は、我々だったのだ」みたいなオチ。
この話を念頭に置いて、「方舟」の話をしよう。国立競技場として作っていた政府のプロジェクトは、本当は重要人だけを乗せて宇宙まで飛んでいく。限られた人間が生存するためだけに作られたものだったのだ、みたいな感じ。
私は、この方舟が飛び始めた瞬間に、最悪のシナリオが頭の中によぎった。それは、「この人間たちが、次なる侵略者となってまた地球を奪い返しに来る」というループものオチだ。この方舟がまた母艦として、別の星あるいはいつかの地球に侵略しに来る。そういう、陳腐なエンドを想像してしまった。だが、最終的なエンディングは方舟に言及していない。陳腐なエンドだけは回避していてよかった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?