原作者と脚本家と、また他の立場と。

ここ10日ほど話題になり、ついにはご他界される方まででてしまった『漫画原作ドラマ』について。
正直、私はこの原作漫画は読んでいないし、ドラマも見ていない。
だからこの作品が漫画として、あるいはドラマとしてどうだったかということは言及できないし、しない。
ただ、私自身“脚本家”として仕事をしていた時期があったので、思うところはいろいろある。すべてのドラマ化・アニメ化した作品が同じ状況ではないのは言わずもがな。
そして、これらの仕事に携わったことがない人が大多数であるにも拘わらず、それぞれがSNSなどで思ったことを述べているなぁ・・・との印象がある。
悪いことではないのだろうが、知らない世界・業界のことをここまで皆が語るのも何か違和感がある。

私が書いていたのはアニメの脚本。ずいぶん昔の話である。
しかも当時は現在のように3~6か月で1シーズンという形式ではなく、半年~1年間の放送があらかじめ決まっているケースが多かった。
私が携わった作品も1年放送されることが決まっているものだった。

今回話題になっているドラマは、原作漫画は連載中だし、1クール10話で放送されるものだったとのこと。
次期ドラマ化が決まっているならまだしも、そうでなければ10話で完結させなければならない。後年のドラマ化の有無は、きっと放送してみなければわからないという状況だっただろうし、長年続いた連載作品を10話で完結させるとなると、原作をなぞるだけではうまくいかなかったのかもしれない、と想像する。
となると、その理由から原作とは違ったところに着地しなければならなかったのかもしれない。
もちろん原作あってのものだし、その原作を愛している読者がいてこそのドラマ化なのだから、原作とは程遠い解釈や物語の終わらせ方に納得がいかないという考え方は尤もだ。それは作者も読者も。
ただ、脚本家という目線だとちょっと違ってくる。
10話で“終わらせなければいけない”のだ。
まだ終わっていない作品を終わらせる・・・うん、難しい。
漫画家や小説家もいろんなタイプがいて、“終点”を決めているタイプとそうではないタイプがある。この原作者さんがどちらのタイプだったのかは知らない。
もし決まっていないのであれば、ドラマとしての“終点”を作らなければいけないし、決まっているとしてもそれはもっと先に明らかになることであり、連載途中である今視聴者に提示するのは、一種の“ネタバレ”になるから避けなければいけない。・・・うん、難しい。
そんな難しいだらけの中で、何をどこまで“脚色”していいのか。
どこまで許されるのか。境界線が目で見えるものではないから、曖昧なことこの上ない。その中で生れた齟齬ではないのか。

連載を抱えた漫画家は忙しい。これは間違いない。
そして放送が決まった作品を書いている脚本家も忙しい。これも間違いない。
ドラマの現場の実際がどうなのかはわからないし、作品によっても違うのだろうが、私が携わっていたアニメ作品のシナリオ会議は週に1回あった。1話30分だったから、ドラマの約半分の長さだ。そして会議にはプロデューサー、監督、シリーズ構成、各話ライターが集まって、ほぼ休憩もなく3~4時間話し合う。セリフ一つにもダメが出される。スポンサーの意向をねじ込まれることもある。そのほかにアフレコにも立ち会う。
アドリブ大好き(そして上手い)声優さんが、台本と違うことを喋る。面白くて採用されることもあれば、「いやいや、そのセリフは後々伏線として重要になるので変えずに台本通りで!」となる場合もある。
そういうちょっとしたこと(或いはちょっとどころではないこと)がつみ重なってその作品の流れを作っていき、物語が紡がれる。

今回の出来事(事件とか騒動という言葉は使いたくない)がどういった積み重ねの結果なのか、原作者と脚本家以外からの話がでてこないのでなにもわからない。
映像作品を世に送る過程が適切に為されていたのか。
ちょっと疑問に思うところではある。

さて、今回の出来事について、脚本家がSNSで「9、10話は自分が書いたものではない」と掲載したことが糾弾されている。
この記事は私のTLにもあがってきていたが、私の感想は世間の多くの人とは違っていた。
あくまで私自身の感想でしかないが『全10話任されていたにも拘わらず、原作者に任せざるを得なくなった。申し訳ない』と言っているのだろうと思ったのだ。
“自分だったら”と考えた。
『仕事を全うできなかった』=『降ろされた』ととらえた。
脚本家として恥ずべき事態である。このドラマを書いたのは私です、と言えなくなったのだろうと思った。原作者から『あなたはダメ』と言われた状況であるのだろうと思った。
それを半ば自虐的に『私が書いたんじゃないだよ』と言って(書いて)みたのかもしれないと思った。
正直、ほかの方(視聴者や原作ファンの方)のコメントを見て、「ああ、そうか、そうなのかな・・・」とも思った。
実際のところ、脚本家はその後その真意を語ってはいないのでよくわからないが。

結局のところ、正解はわからない。
原作者には原作者の、脚本家には脚本家の真意や理屈・理由があるのだろうとは思う。
双方のすれ違いがある時に、押し通すのか、譲歩するのか、互いに譲歩しあって落としどころを見つけるのか・・・何がいいなんて一概には言えない。
拘わる全ての人に理由や理屈や理想があり、受け取った言葉のとらえ方も違うし、金銭的な利害も発生する。

これを機にいろいろ変わってくることがあるのだろう。
『原因究明』は今後のために必要なことだとは思うし、携わった人(法人含め)の中には反省が必要な場合もあるだろう。とはいえ、反省で命を取り戻せるものではないのだけれど・・・。
もしかしたら、原作者とそれを(ドラマ化やアニメ化という)二次使用する会社との橋渡しをする“交渉人”や“代理人”のような役割ができてくるのかも。
今まで口約束だった“条件”について、契約書や覚書のような文書化したものが交わされ、約束(契約)違反について具体的な罰則が示されるようになるのかも。
日本の野球選手が大リーグに移籍するときに、契約等の交渉事をする専門家がいるのと同じように、原作サイドと制作サイドと放映サイドの3社が、各々の譲歩できることとできないことを明確にし、どこか一か所にしわ寄せや負担がかからないように考えないといけないのだろう。
映画監督が俳優を指名できるように、原作者が脚本家や監督を指名できる、とかね。

人一人の命が失われてからでは遅い、というのはよくわかっている。
でも遅くてもやらないよりはいい。
考え方も感じ方も違う。各々の性格、立場によっても様々だ。
そこを何らかの形で相互に見えやすいようにしなければいけない。
決して『今回は運が悪かった』とか『原作者が繊細すぎた』とかで片付けられてはいけない。
今回のことはたまたま表に出ただけで、これまでも、或いは現在進行形で生じている事象はあるはずだから。

最後に。
この文をたまたま読んでしまった人の中には『脚本家を擁護しすぎ』と考える方もいらっしゃると思う。
そこは否定しない。昔とはいえ、脚本家だったので。
原作者にも脚本家にもスポンサーを抱える制作社(者)にも視聴者にも
それぞれの立ち位置があって、そこから見える景色について語るしかない。
怖がって語らなくなることは、言葉で文章で表現するものとしてよくないことだと思うから。












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