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映画「WISH ウィッシュ」とポリコレとディズニーの使命について

ウィッシュのテーマは

ロサスのモデルはイスラエルともいわれている。たしかにそうだとも思う。そうだとも思うが、違う視点からまとめたい。

ヴィラン・マグニフィコは全体主義や権威主義のメタファー

  • 国民は自分の一番の願いを王に差し出す

  • その願いが国家の危険因子となるようなら一生閉じ込めておく

  • 国のためになるならば、聴衆を集めて、かなえてやる

  • 権力と魔法(科学や資源のメタファー)はマグニフィコに集中

人々の願いはマグニフィコ個人に統制される。それがマグニフィコの国の維持のためになるなら成就させるし、ならないなら捨ておかれる。一見、公共のためになる素晴らしい制度だが、逆に言えば、マグニフィコ=国家に事前に監視され、危険因子は徹底して排除される。魔法の力は独占され、市民が使うことは決して許されない。

劇中でマグニフィコは
1.自分以外のものが魔法を使うと一晩中うろたえ、
2.聴衆が自由に意見や質問を述べると激高する。
この2つ場面は、マグニフィコを人として見たとき、感情の動きとしてやや不可解だ。
けれど、彼が全体主義そのものだとすれば得心がいく。その2つは体制を揺るがしかねないものであり、それに対する弾圧は歴史が証明している。物語の後半、禁書(戦争兵器のメタファー?)を読んだマグニフィコの粛清や密告は、具体的な名を挙げずとも、全体主義国家の行きついた先のように見える。
他の方に言われているように、マグニフィコは完全な悪人ではない。むしろ、人の役に立ちたいとすら思っていた。そんな「善良な」人間が道を踏み外して専制してしまうからこそ、史上最恐なのだ。

なぜ主人公アーシャは没個性的で、成長が描かれないのか

ヴィラン・マグニフィコの一方で、主人公のアーシャは没個性的だ。その理由は、『誰もがスター』という歌に集約される。登場人物の全て、誰しもがスターになれるという、この映画の、そしてディズニーそのものテーマだ。
そのテーマからすれば、アーシャは主人公だが、主人公ではない。スーパー・パワーを持っていたり、初めから魔法が使えたり、並外れた勇気や気高い理性によって物語が解決されてはならない。ドラクエの勇者のように、彼女が「誰しも」に置き換えられるほどの個性しかないからこそ、あのロサスの市民の誰もがヒーローになりえたし、僕らのだれもがヒーローになれる、という希望を持つことができる。

アーシャの仲間の特徴

アーシャの家族や友人たちは、有色人種、女、老人、子供、足が不自由、極度の人見知り、自閉症スペクトラム、といった、社会のアンダードッグたちだ。だが、ポリコレよろしく、アンダードッグだからこそ、王に反旗を翻し立ち上がるという役割を担っている。
そのときに使われる音楽『真実を掲げ』は、ジャンベを彷彿とさせるドラムから始まり、ha-hooという掛け声と、荒々しい声で歌われる、アフリカンな曲だ(僕は『アメリカン・ユートピア』の「Hell You Talmbout」を思い起こした)。

この歌が明確にアフリカンスタイルであるように、この反逆はマグニフィコへの反抗というだけでなく、リッチイケメンコミュ強ブルーアイ長身ホワイト男性に支配された国・社会への反抗となっている。
もしも僕らがリッチでもホワイトでも無いならば、これをポリコレとなじるよりは、自身も立ち上がれるんだ、くらいに感じた方がいくらか建設的だと思う。少なくとも僕のようなワーキングプアブサコミュ弱黒眼チビ黄色男性にとって、マグニフィコとの共通点は「魔法使い」くらいしかない。

なぜポリコレは不快なのか

この文章で書いてきたように、この映画は全体主義や権威主義を否定しているように見える。しかし、行き過ぎたポリコレもまた、全体主義・権威主義の影ぼうしだ。
人生で一度もアフリカンと話したことが無くても、アフリカンが出ていない作品を作れば差別主義者の仲間入り。言葉の原義など一切知らなくても、男女差から生まれた言葉を使えば、国際社会に仇なす男尊女卑だ。直接のポリコレではないが、アジアがいくら高温多湿で物が腐りやすくても、プラスチックで包装すればたちまち環境破壊のヴィラン扱いになるだろう。

ポリコレに乗り遅れた僕らは、アジア人で黄色人種という国際社会の弱者にも関わらず、守ってくれるはずのポリコレにおいても叩かれる存在となった。「多様性を認めよう」という善性のある発想ですら、(まさしくマグニフィコが陥ったように、)叩く人間が変わっただけの、国際社会を元首とした全体主義や権威主義となる。
ただ幸いなことに、僕はこの作品からポリコレの「強要」はほとんど感じなかった。

WISH ウィッシュは誰に向けたものか

僕はディズニー映画があまり得意ではなかった。それは素敵なプリンセスやプリンスのおとぎ話、強いヒーローや魔法が国を救う物語が、他人のことのように思えたからだ。
でも、この『WISH ウィッシュ』は少し違って見えた。
最後には特別な力を持った主人公や誰か一人が活躍するのではなく、かつて夢を持っていた誰しもが、マグニフィコを追い詰めるのである。徹底してヒーローの存在を排除した今作では、『スター』さえ無力にされてしまう。
ディズニーを見てくれる人みんなが主役で、みんながスターになれるんだ、という、強い信念を感じた。

願いとは何か

アーシャの友達・寝てばかりのサイモンは、18歳で自分の願いを王に差し出し、夢の無い生活を送っている。
でも、18歳で夢や願いを社会に託し、虚無感にとらわれているのは、果たしてサイモンだけだろうか?
僕らだって、子供のころは野球選手やサッカー選手、アーティストやアイドルになりたかったはずだ。でも、学校や就活で、いつからか「社会や世間のためになること」を強要されて、いつの間にか、夢を大谷や三苫に託して、自分の願いは封印してしまった。

劇中の『スター』は、ディズニーそのもののように見える。大きな力を持っているが、直接悪を倒すことも、夢を叶えることもしない。けれど、誰しもが夢を持ったスターになれることを気づかせてくれる。
夢や願いを持つことを全力で肯定してくれる。
それは、今までも、そしてこれからも、ディズニーの使命であり続けるのだろう。
何より、アメリカという国が目指したユートピアが、一人一人がスターになれて、夢を持てる社会であったはずだ。

この映画にはプリンセスやプリンスは出てこない。そういったキラキラした世界を求める人には不評かもしれない。
でも、子供のころの夢を忘れ、社会のため、会社のために忙殺され、小さなマグニフィコたちに絶えず感謝とお礼を強要され、心が空っぽになっている人間、少なくとも僕には、その胸にふたたび暖かな灯をやどすことができるような、そんな何かがある映画だった。


画像はttps://www.disney.co.jp/movie/wishより引用(2023/12/17)




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