『チクタク 私の旬』の問題性と、手遅れになる前に呪いを解こうと試みること

先日Twitterのタイムラインを見ていたらこんなやりとりがあって、びっくりした。

『チクタク 私の旬』は作詞家・児玉雨子のキャリア最初期の楽曲だが、同曲の発表後現在まで、児玉雨子の提供曲がハロプロにおいてどのように展開してきたかを紹介したい。

キャリアのはじまり

ハロー!プロジェクトは結成以来、所属アイドルはつんく♂の総合プロデュースの下にあり、ほぼ全ての楽曲の作詞作曲をつんく♂が手がけてきたが、その体制は2015年に大きく転換した。2014年につんく♂が総合プロデューサーを退任したため(これはあとからわかった)、翌2015年以降、様々な作曲家・作詞家を起用するスタイルの楽曲制作が始まったのだ。

つまり2015年は、ハロプロにとって、「非つんく♂曲」時代の始まりだったと言える。ハロプロが今後どのようなスタンスを打ち出してゆくのか。つんく♂色の強い楽曲に慣れ親しみ、絶対視さえしてきたファンは、それを支持し続けられるのか。ファンは切実な懸念をもって、各作品における作家性の発露を見守っていた(その結果として、さまざまな作家性の違いを楽しむことを覚えてゆくのだが……)。

その中で新人作詞家として多数の曲に起用されたのが児玉雨子である。まだ研修生であった宮本佳林の出演番組「コピンクス!」のテーマ曲を作詞した実績を買われての抜擢で、既にファンの中で名が知られていたうえ、カントリー・ガールズのメジャーデビューシングルA面・B面の作詞をともに担当した彼女への注目は大きかった(この点については同時期に楽曲提供を開始した星部ショウ氏についても同様だったように思う)。

さて、『チクタク 私の旬』は、その年の7月に発売されたJuice=Juiceの1stアルバム『First Squeeze!』の収録曲だ。Juice=Juiceにとって、2013年9月のデビュー以来、念願のアルバムである。3枚組のうち1枚には、上記の体制変更によって登用された作家たちによる新曲が多数収録されており、まさに新時代の幕開けを象徴するような一枚だったと言えよう。

『チクタク 私の旬』の問題性

発端のツイートを受けて、以下のツイートをした。

これらの補足として、あらためて同曲の歌詞の問題性を振り返る。

〈私、バカじゃないの 自覚もしてる 賞味期限 チクタク 女の旬 あなたといれば永遠かも〉

女の価値が時限的に終わりを迎えるとされていることを〈自覚〉している主人公が、〈あなた〉との恋愛関係の中では、その決まり事を無効化できると期待する曲である。

〈賞味期限〉――特に性的な意味での“価値”の期限、についてはここで説明するまでもないが、確かに、このような言説をばかばかしいと感じながらも、〈自覚〉した振る舞いさえすれば現実の不利益を「賢く」回避できると考えてしまうことはたくさんある。〈自覚〉しているからこそ、その規範に乗っかれないコンプレックスを抱いてしまうこともある。
その実情を描いた作品が、同じ呪縛の中にある誰かの胸を打つことはあるだろう。しかし、それは最低限の批判や相対化に成功してこそ、ではないか。

『チクタク 私の旬』のまじめすぎる主人公は、〈旬〉の存在を「わきまえ」て、自分を卑下してゆく。特に女性アイドルに対してこのような意味での「わきまえ」が求められてきた歴史を思うと、敢えてアイドル本人の口からこのような「わきまえ」を「語らせ」る構図には、つらいものがある。

また、〈あなたといれば永遠かも〉という結論が、規範の転覆に成功しているとも言えない。〈旬〉の存在を前提としながら、男性との恋愛関係によって「延長」されうるという逃げ道を用意することで、規範を温存しているにすぎないからだ。
そりゃもちろん、特定の個人との間に、規範を乗り越えた関係を築ける可能性は信じたい。けど、男性との恋愛関係を結ぶことによってはじめて、そしてその男性との間においてのみ価値が「延長」されることを示されたとて、「女の旬」が生まれた背景にある、異性愛主義とロマンティック・ラブ・イデオロギーが強化されるだけだ。

そもそも、「女の旬」「賞味期限」といった言葉は俗語表現の中でも人間を消費財にたとえるという点で、かなり倫理のない部類に入るから、どの人にも口に出して欲しくないと思う。

児玉氏がこれらに対して全く無自覚に、抑圧を飲み込むことをよしとしてこの曲を書いたわけではないと理解はできたし、ツイートにも書いたとおり、ハロプロの伝統芸的な表現形式を受け継ぐ心意気は感じたけど、正直この曲を聴くたびに胸が痛かった。あれから6年弱、作詞家自らこの曲への反省を明らかにしたのは、私にとって肩の力が抜けるような感覚だった。

ハロプロが世代交代と楽曲の引き継ぎを予定している以上、『チクタク 私の旬』を過去の過ちとしてなかったことにするのではなく、改めて批判的に言及する必要はあるだろう。そしてこの件については、児玉氏だけを批判したいのではなく、この歌詞を通した制作責任者にこそ問題があると思う。

内面化したジェンダー規範と自我との衝突

その後現在に至るまで、児玉雨子はハロプロに欠かせない作家として最前線で活躍している。彼女のキャリアの中で、『チクタク 私の旬』でうまくいかなかった試み、つまり内面化したジェンダー規範と自我との衝突を扱った曲がいくつか存在する。発表順に二つを紹介したいと思う。

『低温火傷』/つばきファクトリー(2017年)

〈来週スノーボード行くらしい 男の子って身軽なのね 君がすこし憎いよ〉

『低温火傷』の恋する主人公は、終始無言である。〈ほんとうならもっともっとわたしだけが愛されたい〉と独占欲を相手に伝える様子はなく、〈わがままひとりで思うだけだけど 連れてって欲しいな〉と想いを秘める。こういった恋愛における受動的なペルソナは、ジェンダー化されたものだ。

受け身の振る舞いしかできない主人公は、当然ながら相手の行動に翻弄される。そしてこぼれ落ちるのが前述のフレーズだ。

相手の人はスノボに行くだけで〈憎い〉とか言われており、ほぼ言いがかりなのだが、主人公は彼が異性だからこそ持っている「身軽さ」に振り回されているんじゃないかとひがみっぽく感じてしまう。ジェンダーに紐づけられたやるせない溝への苛立ちを、筋の通らない嫌味としてぶつけるバランス感が絶妙だなぁと思う。

『チクタク 私の旬』とは全く異なるアプローチで、児玉雨子の「露悪的な」言葉選びが作品全体を引き締めた一例だろう。

『Vivid Midnight』/Juice=Juice(2018年)

〈今夜おしゃれしてるけど 誰のための美貌なんでしょ 優越感と あと憂鬱感 それらを塗って剥いで塗って…〉
〈ビビっとしたい Midnight 自信もほしいよ キリない 美 美 美を 美をプリーズ〉

さらに、『チクタク 私の旬』での試みをブラッシュアップした例として、2018年に発表された『Vivid Midnight』を挙げたい。ルッキズムにとらわれる虚無感と、それでも〈美〉を求める心情を打ち明ける曲である。こちらはK-POP的な軽快なトラックと歌詞のギャップも相まって、揺れる心の動きが表現されている。

手遅れになる前に、呪いを解く

これらの試行錯誤を経て児玉雨子が辿り着いた境地として、2019年末にJuice=Juiceが発表したこの曲がある。

『Va-Va-Voom』/Juice=Juice(2020年)

2020年発売のシングル『ポップミュージック』のc/wとして音源化されている。

〈大人になることは 汚れることじゃないわ ピンと来ないならちゃんと私を見てなさい〉
〈孤独で無力な夜もあるけれど もう誰かの助手席を 降りるときがきたの 行きたいとずっと願った場所まで〉

この曲を聴いたとき、正直驚いた。フェミニズムのポリシーをずばりと投げかけてくる女は、ハロプロ曲の中でも異色の存在だ。

ツイートでも書いたように、ハロープロジェクトには、広い意味で世の中のお約束との葛藤や、ジェンダーにかかわらない人間としての生き方を描く曲が多くある。私はその優しさを好きになったし、それがハロプロだと思っていた。けれど楽曲群の中に、ジェンダーの抑圧に真っ向から挑戦する女がいたって、それはそれで当然のことだし別に良いんだよな。

〈“それでは好かれないよ” 私は好きよ 真っ赤で派手な爪〉

そして、現実にハロプロ内で起きた出来事から借用したフレーズで始まるこの曲は、作詞者がハロー!プロジェクトのアイドルにこそ「語らせ」たいメッセージなのだろう。

ただ本来、児玉雨子は言葉あそびに心を砕くところがあって、ストレートな言いかたをためらう作家だ。こんなにも、ちょっと恥ずかしいほどに直接的な詞を書いた意義はどこにあるのだろうか。

冒頭でも触れたとおり、児玉雨子が作詞の道を歩み出したきっかけは、当時ハロプロ研修生であった宮本佳林の歌だった。そして、『チクタク 私の旬』と『Va-Va-Voom』を歌うJuice=Juiceのセンターこそ、この宮本佳林である。

児玉曲のハロプロにおける展開を概観したうえで、このような背景事情を踏まえると、『Va-Va-Voom』という作品はかつてJuice=Juiceに『チクタク 私の旬』を書いてしまったことへの贖罪であり、ハロプロからの卒業を決めていた宮本佳林へのはなむけとしての意味を持つのではないか。

児玉雨子がグループを旅立つ宮本佳林に対してこの曲を書き、〈行きたいとずっと願った場所まで〉という言葉を送ったこと。作詞家とアイドル、一方が他方にことばを与える関係。ことばによって愛が呪いになったり、ことばによって呪いを解こうと試みたり。

私はこういった営みに、生きてゆくおもしろさを見出す。

(追記)これニュアンス難しかったから書かなかったんですけど、『Va-Va-Voom』を書いたからチャラですとか良い話だねとかではなく、一回やったことは消えないししこりとして残るし構造的な問題解決をしない限り、何か("恋愛スキャンダル"を契機とするメンバー脱退など)のたびに疼くんだけど、自分はこういう抜本的とは言えないトライアンドエラーの泥臭い変化が作家や歌手個人の意思によって音楽作品の中で繰り返されることに心を動かされるのでハロプロも作家も嫌いになれんなという話です。

おわりに

さて、ここまで書いていて、児玉雨子の詞には、時間の流れに対する感覚が強く反映されていると気付いた。だからこそ、彼女の詞の特徴である豊かな情景描写は、一瞬で過ぎ去るものとして描かれる。その感覚が『次々続々』(アンジュルム)、『帰ろう レッツゴー!』(つばきファクトリー)といった曲や、〈生き残り続けられたとして 行き着く先はどこなの?〉(『46億年LOVE』/アンジュルム)、〈なだれ始めた時代にのって 明日からはもうおもかげ〉(『明日からはおもかげ』/カントリー・ガールズ)といったフレーズを生んできたのだろう。そしてこれは、つんくの作詞において、時間感覚がほとんど捨象され、時的要素すらも「空間」に対する描写の一部として取り込まれていることと対照的だ。

この視点からみると、『チクタク 私の旬』の主人公が本当におそれていたのは、加齢というより、今この瞬間がいたずらに費えてしまうことだったと一応想像できる。

ハロー!プロジェクトは大きく舵を切るタイミングで、既存の絶対的な作家と対極の才能を見つけ出してここまで来たのだと思うとなんか多少すっきりした。ハロープロジェクトも、児玉雨子も、どんどんスピードを上げて、どこまでも行って欲しい。(まとめが適当すぎる)

※『Va-Va-Voom』が初披露された「Juice=Juice Concert 2019 ~octopic!~」は最高~~~~のライブなので絶対に見て下さい※

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