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作文時の一人称について

僕は文章を書くときの一人称がよくブレる。
主に僕、私、俺が使い分けられている。
なんでこれが分離しているのかは謎であるが、僕と私に関してはなんとなく法則性があるように思う。その法則というのが、書くことがある程度決まった状態で書き始めるか否かである。
書くことがある程度定まっている状態というのは、何度となく頭の中で考えてなんとなく思考が固まっている状態のことだ。これを文章にアウトプットするときの認証が”私”となっている傾向がある。
そして、書きながら考えをまとめていく場合は”僕”の人称が用いられることが多い。

恐らくこれには文化的な圧力が関係しているのではないだろうか。
一人称はシチュエーションによって使い分けられる。私>僕>俺 の順にフォーマルさが増していくイメージで僕は使い分けている。そして、このことがものを書くときにも反映されているような気がする。だからなんだというわけではないが、そういう傾向があるというだけの話。意識して読んだことがないのでわからないが、同一の作家でも一人称のブレがある場合は上記の傾向を意識してみると面白いかもしれないなと思った

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