上司にアドバイスをもらいに行く苦手意識

ここ最近忙しくて他人と会話ができていないので、noteに殴り書くことでその鬱憤を晴らしています。

個人的に筆記で文字に起こしたうえでタイピングする書き方が一番しっくり来ているのですが何故でしょうか。






ホテルの一室で猫を愛でながらとある作家が

“書くのと打ち込むのとでは脳の使っている領域が違う気がするんですよね。”

と語っていたが、僕の場合それはもう一つ細分化されて、書くこと、打ち込むこと、そしてフリック入力すること。の三つに分類されている気がする。


そして、その集中の度合いは 筆記 > パソコン > スマホ

の順番になっている。


これは多分、スマホを娯楽の手段として使ってきたこれまでの行動に根差した感覚。スマホでやることは主にSNSやネットサーフィンであり、いずれも集中力を必要とするものではない。

逆に筆記は幼少期から勉強のために使われ、行事後の作文の時間に使われ、宿題のために使われてきた。

そして大学でのお勉強には主にパソコンを利用して当たっていたので、古くから付き合いのある筆記を頂点に、その媒体を利用する際の集中力の度合いによって以下 パソコン > スマホと使い分けられているのではないだろうか。


この作家さんの世代にとっては、パソコンに打ち込むことがネットとつながる主要な手段、つまり娯楽性の強いものだったのかもしれない。

ぼくにとってのスマホのように、タイピング=娯楽を求める行為

みたいな図式が出来上がっているのではないだろうか。


だから使われる脳の領域とかそういう話よりも、その媒体に向かうときのこっちの気持ちの問題かもしれないね。というお話しでした。






前書きが全く前書きとして機能していませんが、本題に入ります。


なぜ僕は、他人にアドバイスをもらいに行くのが苦手なのか。


特に塾に行くようになってから親に言われるようになった言葉、“分からないことは先生に聞いてきなさい。”


小中高と、いろんな先生、部活の顧問、塾講師と接してきましたが、僕は一度たりとも質問、すなわちアドバイスをもらいに行けたことがありません。

行く気がなかったのではなく、いけなかったのです。


学生時代はそれでも別にどうにかなっていた、というか試験前、受験前に詰め込めばどうにでもなっていたのですが、働くようになってからそうも行かなくなりました。


質問してくる部下というのは当然可愛がられるだろうし、そもそも社会人一年目のヒヨッコ風情がアドバイスなしに生きていけるほど会社は優しくできていません。


このままではヤバいなーということで上司にアドバイスをもらいにいけない自分を分析してみました。

そう、質問をニッコニコでもらいに行く可愛い部下になるためです。


 

     




厄介なことに、この苦手意識はその対象の性格に依存せずに存在しています。

つまり、上司が怖かろうが優しかろうがアドバイスをもらいに行くのが嫌なのです。怖いのです。

つまり僕の側に原因があるのです。



ではなぜ、僕は上司にアドバイスを求めるのが苦手なのか。

苦手意識の原因を明らかにするため、そういう性格を形作った僕の過去の経験に目を向けていきます。









幼稚園ー小学校低学年の頃の僕は、なかなかの糞ガキだったらしく、○○(出身地)の恥!と知らないおじさんに罵倒されたりしていました。

近所のお兄ちゃんの髪に理由なく噛みかけのガムをつけてその母親に睨まれたり、落とし穴の底に犬の糞を仕掛けて遊んだり、秘密基地周辺にエロ本をばら撒いて遊んでいたのですが、それらのことが発覚するたび父親は

“良いことと悪いことの区別がつかんのか!”

と僕を怒鳴りつけました。

そして、当時の僕は何が良くて何が悪いのか全く分かっていませんでした。






しかし、このころをピークに僕の糞ガキっぷりはなりを潜めます。

ですがそれは、僕が善悪を理解したからではなく、何をすれば怒られて何をすれば褒められるかを把握したからにすぎません。


そして、いまだに自分の中に明確な善悪の基準はありません。

そもそも善悪なんて相対的で流動的なものなのに、そこに絶対性を見出している人間のほうが歪だと思います。自己欺瞞です。





こういった屈折した形で善悪について理解したせいで、悪いことをしたから怒られる。のではなく、怒られる=悪である。という図式が自分の中で組みあがってしあったわけです。




ルースベネディクト「菊と刀」で述べられているような日本人観。

悪いことが宿命的に悪いのではなく、悪いことが発覚し、他者にとがめられることがダメなのだ。という日本人的な悪しき恥の文化が僕にも当てはまっているように感じます。




このような善悪の曖昧な解釈から、怒られることに対する僕の中の認識は歪んでしまっています。







もうひとつ、僕は今でこそ口下手な人間ですが、幼少期は人見知りではあったものの、おしゃべりが大好きでした。


常に適当なことを母親に話し、その日あったことなどを報告し、気になった事はいろいろ質問したりと今の自分からは想像もつかないほどにコミュニケーションが活発でした。

そんなナゼナゼ坊やだった僕に対し父は「なんでもかんでもお母さんに聞くな。」といいました。

どういう意図だったのかは分かりませんが、とにかく今でもその情景を思い出せる程度には強烈な印象を当時の僕に与えていることは間違いありません。


とにかくその出来事をきっかけに、僕の会話は他人に対して負担になっているのかもしれない。

そんな考えが会話の際に頭をよぎり、実家での会話は減り、アルコールを入れなければマンキンでお喋りできないお喋りイップスに陥ってしまっています。


余談ですが、会話に対する抑圧を酒で無理やり外す僕の飲み方は、色んな負のエネルギーを発散する場になっているため地獄の様相を呈しています。








そんな父は寡黙な人で、自分の中に感情をため込むタイプなのですが、これがなかなかどうして恐ろしかったのです。


感情をため込むというのは、一見すると自律的な人格者を思わせ、感情のマネジメント巧者を思わせるかもしれません。

しかし父の場合マネジメントによって適宜発散しているのではなく、コミュニケーション下手から結果的にため込んでいるだけなので時折暴発します。

そしてその暴発は不規則で不定期でした。

リモコンを床に置いていた。おもちゃを片付けてなかった。ドアを大きな音を立てて閉めた。

そんな理由で怒鳴られることがよくありました。

正直たまったものではありません。

リモコンを床に置いていたから怒られたのではなく、ため込んで決壊寸前のタイミングで決定打を放ってしまったから怒られるからです。



何がきっかけで怒られるか分からない生活は不発弾を背負って生活しているようなもんで、なにがきっかけで信管が作動し、爆発するかもわからない生活はなかなかに神経をすり減らすものでした。


不規則に起こられるもんだから自分の何が原因かもわからず、今どのくらい溜め込んでいるのか分からないものですから、常にキレる寸前の人間と接しているかのような独特なストレスがありました。








こうして育まれたコミュニケーションに対する若干の恐怖。

善悪と怒られることの主客の転倒。

大人に対するいつ爆発するか分からないビックリ箱的な恐れ。

これらの感情を抱えこむようになったことが、先輩への質問に対して必用以上に恐怖を抱いている原因だと思います。





怒られること=悪。すなわち怒られることが直接自己否定につながっている状況と、大人に対する父親由来の漠然とした恐怖。

先輩と積極的にコミュニケーションをとり、単に大人としてでなく、一人の人間として接することが出来れば、この感覚は払拭できるのかなぁ。と漠然と考えています。




僕の周囲にいる本当にコミュニケーションがうまい友人は、人間に対する興味が僕の比ではありません。

大人。という単位で人間を見ていないように感じるので、ぼくも人間に対する解像度を上げていこうと思います。



ということで中園先輩。いっかい飲みに行きましょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?