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コミュ症という幻想

私コミュ症だから......
と言い訳をしたことはないだろうか。

私はそんなものは存在しないと思う。

相手との共通点の少なさが、まるでそういう病があるかのように存在するだけだ。

昔は、皆がテレビやラジオを通じて共通の知識を取得し、共通の話題からなる会話が成立していた。

その中でオタクと呼ばれる人々は、とてもコアな情報を仕入れて、そうした情報を共有することを目的としたコミュニティに所属していた。

だからこそ、普通の人と違う知識・価値観を持つ彼らは、コミュ症であると自嘲していた。

しかし今日、これだけのSNSやメディアなど多様化している中で、誰もに共通する知識はあるだろうか。

・学校に行かずにyoutuberとしてお金を稼ぐ少年

・教育課程の中で大学院の博士過程まで進み、そのまま大学で教鞭を取る教員

仮にどちらも同じだけの給料を手にして社会に貢献していたとしても多様化した社会では意図しなくとも共通知識は異なってしまう。

SNSだけでも多くの種類があるし、暇つぶしの方法なんて腐るほど存在する。

たまたま、暇つぶしや見聞きしているものが一致しているものがあればコミュニケーションは成り立つが

そんなこと事態広く社会を見てみると珍しくなっているのではないだろうか。

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