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水仙⑭

珈琲屋に入った銀之助は、猫のように奥のテーブル席に進んでいく譲の肉付き寂しい背中に目をやりながら、自分は扉の鉄製ハンドルに手をかけたまま、数秒間、一輪の大きな山茶花が描かれた玄関マットの上に足を止めていた。

そこで銀之助の感覚が受け取っていた第一の刺激はもちろん嗅覚からの情報であった。
それは格式張った高級的な薫りのようなものではなく、第一に、自ずと人の心の本質的部分を温める − 珈琲好きのあの子の仄かに暖房の効いた小さな部屋に満ちる温もり、いくら人文書を読んでも結局は外界に馴染むことのできない人間の脳を曇らせる得体の知れない迷霧、靄、影をふっと晴らしてくれる……そんな香りと、第二に、街の活動にいつのまにやら疲れ果てさせられ昔自分好みで選んだ家電品や調理器具の使い方をもはや忘れてしまった人々の無邪気な食欲を呼び覚ます小麦の香ばしい匂い、そして、フライパンで少量のバターとともに熱されるきっと美しい太陽色をした卵の匂いであった。

けれど彼は、それらの眩い香気以外の存在 – 恐らく視覚から感じられるなにか、あるいは直接的な肌触りのようなもの – によって、自身の脳内に埋まった数多のニューロンたちが草原にしずかに降り積もる星屑のように鎮まってゆくのを感じ取っていた。
もしそのとき私が銀之助の体内を精細に観察することができたならば、彼の基本単位である細胞たちが一斉に警戒を解く合図 − なんらかの肯定的な指令 − を仲間同士活発に送り合っているのをきっと眼にすることができたであろう。

瞬間的な無意識が過ぎ去った後、銀之助の心情はどこか愉快なものであったがそれを言葉で表すならばこうである。
己にはどうにもコントロール不能な自身の感覚源、つまり脳のキャパシティを易々と超えてゆく未知で複雑で怪奇で精神的な情報群が巨大洪水のように押し寄せた際、機械的に動き出すあの灰色の塊……が、譲(なにかしら自分と通底しているものを身体の内側に備えていると思しき人物)の休息空間に対し、第一反応として示したものが、何の邪念もない友好的反応だったことに、安堵し、そしてうれしく感じている……。

その要因はなにか?
推察するにそれは、扉を開けた銀之助の眼が偶然に捉えた存在、彼女(店主)が新来客に対して向けた適度な関心を含んだ温かな視線、またその微笑から揺曳していたまるで小さな美を芽吹かす、限られたヒトの敏感な動物的本能だけが感受する敵対心なき安らぎの気配のおかげであったのだろう。


店内には、カウンター席が五席(新聞は折り畳んで読むのがやっとだと思う)と、脚の短い四人掛けの木製テーブルが三卓なんだかおまけみたいに並べられていた。
キッチンに立つ店主は毎朝早い時間帯に賢いラブラドール・レトリーバーと散歩していそうな五十代後半ぐらいの女性で、暗めのブラウン色の髪には少しパーマが残っているようであった。何本かの浮き毛たちが彼女の意思とは無関係に小窓から射し込む冬の朝日に所々共輝していた。

譲は一番奥のテーブル席、小さな朝の光に照らされる窓側の椅子を選び、銀之助に自分と真正面に向かい合う席を控えめな手振りで案内した。彼らは椅子に腰掛ける際、同じタイミングでテーブルの端に膝をぶつけて目を見合わせた。ふたりは少年のようにはにかんだ。

壁には近くの小学生が描いたらしいポスターや演芸もののチラシが貼られており、銀之助はそれをなんとなく読んだり、お冷やなんやらを用意しているであろう店主が時々立てる物音を聞いていたりした。そのあいだ彼は、前の席で大欠伸をしたり首の運動をしたりして時間をつぶす譲が時折自分の顔をじっと見澄ましているのを感じていた。

そんな二人以外で、店に腰を落ち着けていた客はただ一人、長年愛用していると思われる薄ら禿げた青のセーターを着た老人だけであった。彼はカウンターの真ん中をいかにも自分の定位置のように陣取っていたが、その姿はどこかチャーミングで、老人は火のついていない煙草を銜えながら店の中に入り込んでいた大きな蝿の敏捷な動きをなにか楽しそうな目つきで追っていた。


「ごゆっくりね」

カウンターの向こうから旧友に見せるような頬笑でやってきた女性はまず湯気が綺麗に立った珈琲を、そしていつのまにか作ってくれていたモーニングプレート(耳の部分が少し焦げた厚切りのトースト、ケチャップが隣に添えられこんがり焼かれた二本のソーセージ、適度に固まったスクランブルエッグ、少量のポテトサラダ)を銀之助と譲の前にそれぞれ音を立てずに置いた。彼女は「お冷はセルフね」と譲に笑いかけた。


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