見出し画像

水仙⑬

銀之助と譲の姿は細い路地にあった。道の左右には小さなベランダに花火のような折鶴蘭を飾った集合住宅や得体の知れない会社名を得意げに張り出した雑居ビルが、不揃いでもどこか愉快に生き抜く家族のように建ち並んでいた。
二人が歩く地面は昨夜の雨の影に少し濡れていて、上空に満ちた冬の朝の白い日差しはなんとなくここから離れた世界だけを照らしているようであった。陰翳的な静けさに息づくこの路地特有の沈黙は、強い光を放ち続ける街の輝きよりも、妙に深くそして生々しく人間的な営みを感じさせた。街の影は雨後の美しさとしめやかに戯れ合っている。

銀之助は珈琲屋に向かう間、その店の常連客である譲に店の詳細について三つ四つ訊ねていた。その意識下に働くのはもちろん無邪気な好奇心等ではなく仄暗い防衛意識のみであった。
銀之助は自分が未知なる空間に足を踏み入れる際、事前に脳内でその世界のイメージを描き切らなければ、外の世界を現実的に歩く二本の脚が本人だけにわかるよう内側から抵抗してくることを自覚していた。日頃の彼は、店の中の椅子に腰を落ち着けて(正確には注文をし終えて)ようやく、先ほどまで緊張の液体のようなものに浸されながら歩いていた一人の男を馬鹿にできるのであった。けれど彼は、その馬鹿者の細胞の奥底には、当人だけでは到底変えられない性質、憂鬱で敏感な粒子が密濃く潜んでいることを知っていた。過去の彼に同情できるのは未来に到達した彼のみであった。

銀之助はある夜、一緒に酒を飲んでいた友からこんな知識を披露された。
「なにかを過剰に心配する性質は人類が生き延びるために獲得してきた進化の残骸なんだ……」
寝床に入った彼は、重要なことを学んだと思った。それは、断片的な知識は人間の心に少しの気楽さも与えてくれない!という確かな実感であった。一体この単語の連なりのどこに安らぎがあるだろうか?実質的な力があるだろうか?目を閉じると彼は、日々直面する新しい微細な世界に怯えつつも、のうのうと生き延びてゆく未来の男を瞼裏に発見した。男の顔は自分とそっくりであった。彼はその男を嫌った。生身の姿をひたすらに隠さなければならない世界を嫌った。外部の力に屈し脆いほんとうを曝け出そうとしない人間を嫌った。そして、そこから生まれる自分の苦い笑顔を最大に嫌った。
彼は感情と不均衡な自分の表情を想像するたびに、他人の頭の中へ機械的に残されてゆく自分の複製を不気味な感覚で見届けるのであった。たったひとり自分の精神世界に立ち尽くす彼自身はいつも淋しそうにしていた。


「ここです」

譲はビルの一階にある珈琲屋の看板を指し示して言った。ビルは三階建てらしく入り口のすぐ横に階段があった。上階にはバーやスナックが入っていた。階段の奥から星の底に吹くようなひんやりとした風が絶えず吹いてきた。銀之助はなんとなく仕事終わりに顔を赤くしてげらげら笑う大人の姿と、それに合わせて大げさに笑う若者の姿を思い浮かべた。
譲は店の扉を開けた。銀之助は読み耽っていた短い小説をそっと閉じるように、ひとつ息を吐いた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?