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老犬と白い蝶

遠い国に舞う雪の如く澄む光の粒が降り落つ湖の近く正午前、少年はいつもどおりその場所に向かう。ぶっ壊れたインターホン、どこからかきこえる家主の声、彼はおんぼろな格子戸を開け敷地内に入る。

少年は心からこの家の小さな縁側が好きだった。もちろん家主のことも、老いた犬のことも。背高い硝子窓から射しこむ陽光、空を突き刺す凛々しき緑、地に佇む花の慎ましい香り、死期を悟った犬の瞳、小さな縁側はいつもそういう深い生命的な、それでいて清々しいほどに冴え切った無常さで異分子の少年を迎えてくれた。

深く茂った生垣の向こうから吹く季節のすきま風は正午前の手持ちぶさたな少年の身体にちょうど心地よく、そしてどこか空っぽの森のように淋しい。彼は最後の煙草を味わう孤独な病人のように午前最後の外の香りを肺に付着させ、無邪気な素足を庭の素肌に結合させる。二つの裸から染みこむ星の冷たさは少年の中に生きる細胞たちを遥か彼方サバンナへいざない彼の眼は自然青に澄み切った空へと飛んでゆく。

「いつだって、来てもいいんだよ」

あるとき家主は愛する老犬の背中を撫でながらそう言った。続けて、「ここから季節に属さない空を見上げることが好きなんだ」と教えてくれた。

家主は特に途切れ途切れの風が吹く日、少年にそういう類の話つまり沈黙的で美しい話をしてくれた。彼はそんな話をしてくれる家主とそれを許すこの縁側が好きだった。話をする間、家主は決まってシワだらけの手のひらで老犬の頭と背中を優しく撫で、顔に深く埋まった力なき二つの瞳をあの碧高い空に同化させていた。その時間、少年の眼は満天の大海原に残されたひこうき雲の行方をひたすらに追いかけ、街と湖を毅然たる態度で囲む山の稜線をなぞった。

この時期、山の頂からはにっこりと満足そうな顔をした夏がこの小さな縁側に向かって手を振っているような気がする。少年はうしろをふり返り秋の背中のようなものを探す。硝子窓にはひとつ人間のような影と外の電柱の上からこちらをじっと観察する黒いカラスたち。

ここに来ると少年は自分の内側を語ることの重要性を認識させられる。そして外側の家、そういう類の話が許されない家、そういう類の話を忘れてしまった家主たちの住む家に平然と帰ってゆく自分の姿を発見し、そのことが猛烈に嫌になる。ふと彼はそんな自分の姿を宇宙の先っぽからだれかが淋しそうに見つめているのを感じる。

沈黙の世界より少年は黒いカラスの眼を見つめ返す。だがもちろん、カラスたちはとっくに少年への興味を失っておりそこに彼らの姿はない。少年は目を落とし、足もとで眠る老犬の上に今日もまた白い蝶が舞っているのを確認する。


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