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再現性なき人生、それ仮説

「人類四〇〇万年の歴史、だれひとり同じじゃないってさ……、み〜〜んな、仮説ってことだよね?」

「なにを言っているの?」

「つまりさ、このせかいのだれひとりだれの人生も再現できないってことだよ」

「だれの人生も!つまりそれは、だれの人生だれにも再現されえないってことになるじゃないか」

「そう、とてもセクシーだね」

「ターン、ターン、タタッターン!」



あれはたぶん、虹を焼こうとやる気満々に美しく燃えていた夕陽が沈黙の湖を淋しそうに照らしていた八月の午後六時を過ぎた頃で、大きな湖のそばでは蝉の合唱と魚の死骸が夢と現実のように混ざり合い子どもと大人のように混ざり合えないでいた。

友だちとの遊びの帰り道だろうか、行き場を失った妖精のような小さな影と平日午後の大型犬のような眠たげな眼を引き連れて、刈られたばかりの野原にごろんと寝ころがったのは少年、喜太郎。ちなみに丸刈り頭である。

彼は、昼間の酷暑に茹でられた草土の匂いと幾億光年の煌めきをこの湖まで軽快に運んでくる風光が、自分の身体の奥にうずまった熱を冷ましてくれるのを感じながら、ふと、この身体ごと地底の中に沈み込んでいったらいいのになぁと考えた。もしもこの星の胎内へと沈みゆくことができればその道中ではどんな人工物よりも美しい星が見えて、それは宇宙の星、どれでもいいけど、今日は金星にしよう、なんとなく、そう!金星、金星、金星!、あれなんの話をしてたっけ。

喜太郎は、公園の水たまりのような自分のちっぽけな脳のどこかに、最近学校で習っている国語や算数の世界が通用しないほど真っ暗で底知れぬ世界があるのを知っていたけれど、時折、そんなところで、だれか(たぶん、おかっぱ頭の少女)が夏の微笑のように静寂で透明な世界を描いているのを、美しい森のどこかで継がれるたいせつな焚き火のように感じていた。

そんな安らぎの灯は今日の昼間に公園の上空で見かけたふわっふわっな入道雲のような眠気にすぐに姿を変え、少年の記憶の海上に強く漂い、彼の水分をたっぷり含んだふたつの瞳はもはやあの子の部屋の真っ白な布団に包まれていた。比叡山の方角には、虹をうまく焼き切ったのか満足げな顔をした見事な夕焼けが発生していた。

「夜を想像しよう。美しさとか幸せとかそういうもののさきにある、ただ不安で、ただ無気味な夜を」

喜太郎の後ろのほう、だれも座ろうとしない古びたベンチに腰をおろしていた青年がいつのまにか彼に近づいてきてそう言った。喜太郎は目を瞑りながらこう訊いた。

「なんのためにさ.…zzzZZ」

「あら、君は鴉の子どものような声をしているね」

「カラスのこども?それって、どこにいるの?」

「そんなこと知らないよ。でも、君の声は鴉の子どものような声だよ」

「ありがとう」

「ごめんね」

青年はそう言って、ぽりぽりと頭を掻いた。彼の頭の中には夜の湖がなぜだか広がっていて、それは、たとえ僕たちが人類史という単位を精神の内から外へ持ち出してじーっと眺めてみても、だーれもなーんにも気づかないほどにゆっくりと拡張していた。青年はこの景色をどうしていいのかわかんなくて、とにかくだれでもいいから話してみて相手の反応を窺ってみたかった。でももちろんだれでもはよくなかった。

喜太郎は子鴉を思い浮かべようとして、ああ、今日って昼ごはんなに食べたっけ……と考え、ふーっと、ひとつ星を流すような息を吐き、昨日みた橙の月のような深い眠りに沈んでいきました。


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