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私がイギリス🇬🇧に行く理由②



「普通」とはなんぞや

私は子供の頃から、少し変わった子みたいな扱いをされ続けてきたから、
どこかで「普通」であることへの憧れやこだわりが人よりも強いと思うんです。

特に高校までは、なんともまぁ生きづらかった。これについては「周りの目は気にせず好きにしなさい」という母の教育方針を恨みます。人は社会的な動物だから変わってたらある程度奇特な目で見られちゃうのに、専業主婦でお友達が少ないお母様にはそれが分からなかったみたいです。「お前は周りの目ばかり気にする」って私が子供のころに言われた。そうでしょうね。あなたほど世間と離れて生きてるなら人の目なんて気にならないでしょうねぇ。その方針で育てるんだったら何言われても平気なメンタルの強さもセットにして育てておけよ…。

高校まではさ、たまたま同じ学校に入った200人くらいの同級生と30人くらいの部活の先輩後輩と15人くらいの先生しかいない社会じゃん?私にはあの箱は狭すぎたっていったらカッコつけ過ぎかもしれないんだけど、付き合う子を選べない状況は生きにくかった。どうしても一日の大半を一緒にいないといけないから。それ以外の社会も持ってなかったし、持とうって発想に辿り着けなかった。いわゆるスクールカーストは低かったけど友人には恵まれてたからかな、外に何かを求めるほどじゃなかったのでしょう。

まぁでも、みんな違ってみんないいとか嘘だよ。

大衆に合わせて、その一員として生きられた方が、その生き方に疑問を持たない方がきっと楽だったと思う。
いまそうじゃないことが不幸っていうわけじゃないけどね。

大学に入った時、私を変わってる扱いをしないでそのままの私を受け入れてくれる人たちに出会いました。というよりは、私を変わってる変人扱いする人と一緒に過ごさなくて良くなりました。
大学生になってしばらくしてから息を吸うのが楽になって、そんなことに気がつきました。

社会人になるともっと自由。好きな人とだけつるめばいいんだもん。自分のことよく思わない人は離れていいし向こうからも離れていく。

そんな感じで私は私というキャラクターを肯定することができるようになったけど、
それってやっぱり周りとずれてる自分を、自分で認めてあげられるようになったわけじゃなくて、どうしても他者からの承認を必要としていて私の場合それが承認欲求に結びついたのですが、それはまた別の機会に。

生きずらさみたいなのは無くなったけど、それでも「普通」というものは追いかけてしまっているのです、今でも。普通じゃないことが怖い、なにか得体のしれないものを見るような視線に耐えきれない。

普通に生きてても今よりは幸せにはなれない気がする。

さぁそんな普通の幸せを追いかけてある程度のことを我慢してある程度真面目に会社員をしてきた私ですが、どんどん貧しくなっていくこの日本で、今の延長線で生きていても幸せになれないんだ。と思いました。

そこで少し吹っ切れました。

あぁ、別にもう好きに生きよう。何かを我慢して普通の幸せを追いかけても私の技量とモチベーションじゃ普通の幸せは達成できない。人生への諦めを感じました。じゃあもういいや、やってみたかったことや自分の得意分野で戦ってみよう。好きだからできることってなんだろう?

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