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第80期A級順位戦最終局〜将棋界の一番長い日〜大盤解説会レポート

現在8つある将棋界のタイトル戦のうち、1935年の第1期開催から今期で第80期を迎えた名人戦は、最も長い歴史を誇り、将棋棋士なら誰もが目標とするタイトルだ。

名人位の獲得にむけて、将棋棋士は1年をかけて順位戦という文字通り序列を決めるリーグ戦を戦う。中でも名人への挑戦者を決定するA級順位戦には、約180人の現役将棋棋士のうちわずか10人のみが参加できる。

先日のnote記事でも紹介したが、順位戦A級に所属する棋士ということ自体がトップ棋士の証である。

A級順位戦では名人挑戦者を決定すると共に、成績下位の2名がB級1組へと降級するため、挑戦権獲得はもちろん、リーグ残留の熾烈な戦いが繰り広げられる。

A級順位戦の最終局は毎年同日一斉に行われる。1日制で6時間と他棋戦と比較して最も長い持ち時間であり、なおかつ挑戦や降級をかけて負けられない熱戦必至となることから、巷ではこの日を「将棋界の一番長い日」と呼び、その結果に大きな注目が集まる。

そして、最終局の開催地は第76期から5年連続で静岡市・浮月楼に決定した。大盤解説会に運良く当選した私は、初めて「一番長い日」を現地で観戦できることに胸を躍らせながら当日を迎えた。

2022年3月3日。静岡駅北口を出て徒歩7〜8分で浮月楼に到着した。大盤解説会は開始が14時、受付が13時からで、12時30分頃と少し早めだったので外の入場列に並んだ。13時ちょうどの時点では約30人ほどの列で、男女構成比率も見たところ女性が多めで近年の将棋ブームを実感した。

2022.3.3 静岡市「浮月楼」

会場は本館の2階と3階にあり、2階から先に着席するようにとの声がけで階段を上がる。対局が行われている「明輝館」の写真のイメージで温泉旅館のような和風をイメージしていたが、こちらの本館はシャンデリアなど調度品も洋風で全面に絨毯が敷き詰めてある。

浮月楼本館2階 「月光の間」

受付で渡された資料に目を通すと順位戦記念扇子の抽選販売が2回行われるとある。買い逃した私には朗報だ。次の一手クイズは夕食休憩時間の1回のみ。何とか当てたい。こちらも負けられない戦いに気を引き締めた。

14時定刻ちょうどに解説会がスタートした。司会者のかたからの事前説明で印象的だったのが、深夜遅くなるので交通手段等はご自身で確保するように、という注意喚起だった。順位戦の終局が日付を超えるのが珍しくない事は承知の上で参加している。この時にはまだ波乱の幕開けとは知らずに、いよいよ始まる大盤解説会にワクワクしながら先生方の登場を待った。

この大盤解説会の様子は朝日新聞社の囲碁将棋TVからYouTubeでLive配信されたのでアーカイブ視聴が可能だ。私のレポートでは感想をメインにお伝えしたい。


オープニングは大石直嗣七段と藤井奈々女流初段ペア。奈々先生は今回同じく聞き手で参加している石本さくら女流二段と一緒に、対局開始を観戦できたという話をされた。
5局のうち糸谷哲郎八段VS斎藤慎太郎八段の対局室が20畳くらいの広さだったのでそこで初手着手をご覧になったそうだ。すると森信雄門下で糸谷先生の弟弟子である大石先生が、部屋が広いと糸谷さんが歩き回れるスペースがあるのがいいですねと話し、考慮中に歩き回るスタイルがお馴染みの糸谷先生をよく知る弟弟子らしいコメントに会場からは笑い声が上がった。

解説会は1時間毎に約10分の休憩を挟みながら解説陣が交代する方式で、気分も変わりメリハリがいい。2階と3階に分かれた大盤解説会場は、解説の先生方が両方を行き来してくださるので、どちらの会場でも同じように楽しめる。

15時からは渡辺明名人と石本さくら女流二段が登場。これって配信されてるんだよね?下手なことは言えないなあと笑いを誘いながら滑舌良く朗々とした渡辺名人の話しぶりには、将棋初心者の私も自然と引き込まれる。

話題の新しいAIについても、これまで曖昧だったものが数値で表せるようになった事例でわかりやすく解説してくださった。例えば勝勢の評価値を1500とするなら、端歩を突き越すと200で評価が高いといった感じで、色々と工夫しながら研究を進めておられることが伝わってきた。

今回の最終局のように挑戦者と降級者が決定していることはおそらく今までなかったと前日に記者の方が話していたそうで、そうなると真ん中が団子になるのは理屈なんですよ、と話され、なるほどと思った。上と下に星が偏るとその間の棋士は接戦になる。ちょっとした会話の中に渡辺名人の頭の回転の速さを感じた。

現在4勝4敗の豊島将之九段と広瀬章人八段は今日の勝敗によって2位〜7位と順位が大きく変動する。こうなるとさすがに勝負将棋だよね、と同じ棋士としての心情も説明してくださった。朗らかにテキパキと話されるので渡辺名人が降壇されるまでの約45分はあっという間に思えた。

渡辺明名人

この後も佐々木慎七段、中村真梨花女流三段と解説陣のペアが入れ替わりながら解説が進んでいく。どの先生方も5局それぞれ全く違う局面を瞬時に把握し、都度現局面までの流れや指し手の意図、形勢判断などを解説くださるのでとてもわかりやすく集中して観戦することができた。

静岡対局記念扇子販売の2度の抽選には残念ながら外れてしまい、グッズを手に入れるチャンスはあと次の一手クイズだけとなった。2階と3階の会場それぞれの先生が携帯電話で相談して5局どれから出題するか決めるのが面白い演出だった。携帯電話をスピーカー設定にしてマイクを近づけて音を拾っているので、会話の内容も聞き取れた。

豊島将之九段VS菅井竜也八段は渡辺名人が直前の解説で予想しておられた流れで手が進んでいた。豊島先生が自陣の穴熊に金を近づけ引き締めた61手目の後の菅井先生の手を予想することに決まった。
慎先生、大石先生ともに「やんちゃ流」とも呼ばれる菅井先生らしい攻撃的な手を予想された。

今年1月に名古屋で行われた朝日杯の公開対局を現地観戦して、駒音の高さや動きの大きい仕草などから感じるワイルドな雰囲気と棋風とがピッタリくるというのが菅井先生の印象だった。ここで守りの手は指さないだろう。私は先生方の予想とは違う攻めの手を予想して「その他」として投票を済ませた。

対局者の夕食休憩に合わせ、18時15分〜19時の休憩の後、正解手が発表された。結果、解説の先生方の手は的中しなかったが菅井先生の継続した攻めの一手だった。

他の参加者のかたも同じ意見が多かったらしく、的中者は参加者173人の過半数超えの80人強だった。当選者は20人程度だったので私は抽選に漏れ、あえなく敗退となった。菅井先生といえば攻め、という印象が皆さんに定着しているのだなと、改めて感じさせられた。

19時からは将棋連盟理事を務める鈴木大介九段が解説陣に参加された。にこやかで存在感だけで場を明るくされる。プロでこう指すのは品がないからやらないのですが、という風に笑いを取りながら候補手のテクニックを説明してくださり、プロの先生方の美しく感じる棋譜は、きっとこういった配慮があるからなのだと興味深く聞いていた。

21時34分、糸谷哲郎八段VS斎藤慎太郎八段が急転直下の展開で終局となったのを皮切りに、残り4局も次々と終局が近づくなか、渡辺名人も指摘しておられた豊島菅井戦だけは膠着状態が続いていた。相穴熊戦ではお互いの守りが堅く、決め手に欠けると千日手で指し直しとなる可能性が高くなるらしい。他の先生方も一様に同じ意見だった。

22時からは渡辺名人と大石先生のダブル解説。鮮やかな勝利で来期2位が決まった糸谷先生が期待を裏切らずに会場にお越しくださり、昼食の将軍御膳のしゃぶしゃぶを対局者10人同じ部屋で黙々と食べた話などを楽しく披露してくださった。相当お疲れのはずが、軽妙でそつのない糸谷先生の語り口には改めて頭脳明晰さを感じずにはいられなかった。

終局後の糸谷哲郎八段

22時42分、予想はしていたとはいえ本当に豊島菅井戦の千日手が成立した事を携帯中継で知った。会場では渡辺名人による広瀬章人八段VS羽生善治九段の解説の最中だった。豊島菅井戦指し直し局は30分後の23時12時に開始との事だ。朝9時から指しておられる先生方がこんな深夜にまた一から対局を開始されるのかと、私自身の疲労感と重ね合わせてその凄まじさを思い知らされた。

23時15分スタートの解説は大石&石本ペア。この直前の23時10分に羽生先生が投了され広瀬羽生戦も終局していた。残り3局。大石先生は普段から23時には就寝しているそうで、頑張るしかない、と仰る言葉に、観客は皆さん間違いなく共感していたと思う。

23時50分に佐藤康光九段VS佐藤天彦九段、23時51分に永瀬拓矢王座VS山崎隆之八段が終局した。残りはついに豊島菅井指し直し局のみとなった。会場を見渡すと電車の都合などでやむなく帰宅されるかたもおられるため、2階会場の観客は40〜50人とスタート当初の半分程度になっていた。最後まで残った者同士、不思議な一体感も生まれていた。

24時55分、広瀬先生が大盤解説会場にお越しになった。疲労をほとんど感じさせない身のこなしや、退場間際に豊島菅井戦の現局面をパッと見せられ、穴熊が堅いので先手(菅井)よしじゃないですかと瞬時に判断されるところに、A級連続在籍8期の広瀬先生の凄みを感じた。

終局後の広瀬章人八段

26時15分、司会者のかたもこれが最後の解説になると信じて、と仰りながら佐々木&藤井ペアによる解説が始まった。解説の先生方もさすがに時折言葉が浮かばず絶句されることはあるものの、お二人とも最後まで気丈に素晴らしい解説を続けておられた。

ありがたくも解説を聞けるのだからしっかり頭に入れないと、とわかってはいるものの、もう3手詰めさえ解けない、角の利きに間違えて指してしまう、というくらい私の頭は真っ白で思考停止していた。それでも豊島先生と菅井先生は指し続けておられる。感動しかなかった。

指し直し局はついに菅井先生が勝勢となった。携帯中継の評価値では▲菅井96%△豊島4%まできている。豊島ファンの私でさえ、もはやこれまでと敗戦の覚悟を決めるしかない状況だった。しかし、豊島先生は最後の決め手を与えない。焦燥を隠せないのか、菅井先生のかかり気味の指し手に対し、豊島先生は冷静で確実な応手を続ける。

勝勢なのに決めきれないことにさすがの菅井先生も業を煮やしたのか自陣に金駒を放った。この一手が結果的に疑問手となり、少しずつ豊島先生に形勢が傾き始めた。深夜の大逆転劇だ。

27時18分。9時対局開始から18時間18分。菅井八段が投了しついに終局となった。会場からは大きな拍手が沸き起こった。私も対局者のお二人にだけでなく、この瞬間を見届けるために頑張り続けた解説の先生方やここにいる観客のかた全てにお互いの健闘を讃える気持ちで手が痛くなるほど拍手し続けた。

こうして将棋界の一番長い日は終わった。熱戦の5局、指し直し局での死闘の末の勝利を見届けた嬉しさで眠りについた。長く、濃密な、忘れられない1日となった。

翌朝は終局から数時間後なのでまだ興奮状態が続いていたのか普段通り7時過ぎに目が覚めた。静岡市は薄曇りの穏やかな朝だった。前日は対局中で終日立ち入り禁止だったため、改めて浮月楼の庭園を見に行った。対局日には18度近くまで気温が上がっていたらしく、この日の朝もコートが要らないくらい暖かく感じた。

激戦の余韻を感じさせない静かな庭園では梅の花が満開だった。来月からは名人戦が開幕する。先生方もそれぞれ次の順位戦に向け、もう前を見据えておられることだろう。豊島先生の最後まで諦めない姿勢を思い出し、きっと自分も新たな季節を頑張っていけると感じることができた。

熱戦を見せてくださった先生方、深夜まで対応された関係者の皆様、一緒に会場で最後まで見届けた観客の皆様、ここまで長文をお読み頂いた全ての方に感謝の気持ちをお伝えしたい。そして来年もまたこの素晴らしいイベントが開催される事を心から願ってやまない。

浮月楼 庭園

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