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第82期名人戦第3局 羽田空港大盤解説会レポ


初の羽田空港でのタイトル戦

2月に第82期名人戦の日程と開催地が発表された際に目を丸くしたかたも多かっただろう。将棋の名人戦といえば老舗旅館や高級ホテルが開催地の定番だが、今期はその中でも特に「羽田空港第一ターミナル」に驚かされた。
多彩なレストランやショップがあり、展望デッキからは離発着する飛行機を眺めることができる。夜景も美しいので飛行機を利用しなくても楽しめる場所だとは知っていたが、まさか将棋のタイトル戦が開催されるとは、全くイメージが結びつかなかった。

将棋も今や新時代を迎えているとはいえ、轟音を立てて離陸する航空機と沈黙の中で将棋盤を挟む和服姿の先生方が同じフレームに収まるのは、時空のねじれかと錯覚するような不思議な構図だ。
この斬新な舞台でどんな将棋が繰り広げられるのか。2024年5月9日、私自身も初めてスーツケースを持たずに羽田空港へと向かった。

大きな窓から滑走路が見える大盤解説会場

大盤解説会場となったギャラクシーホールは第一ターミナルの6階にあり、見晴らしのよい窓からは滑走路にたくさんの飛行機が並んでいるのが見える。自分が将棋の観戦をしに来たことをつい忘れそうになる。

正面に大盤、サイドに対局室が映し出される
窓の向こうは滑走路。ここで将棋⁈と脳がバグる

定刻の午後2時に大盤解説会が開始され、解説を務める阿久津主税八段と貞升南女流二段が登壇された。
貞升女流は会場に到着するまでに迷いませんでしたか?と前夜祭でファンの方に導いてもらったエピソードを話され、阿久津八段もそこに行きそうな人の後をついていくのも手ですよねと応じ、軽妙なかけ合いで会場を和ませていた。
大盤解説会場では、どの会場でもAIの評価値は表示されないことがほとんどだ。阿久津八段の初手からの解説は指し手の狙いも含め、対局者がどのように考えて駒を進めたのかが初心者の私にも理解しやすかった。
この先の展開のシミュレーションはもちろんのこと、局面が一手一手進むごとにリアルタイムで解説が聞けるので、まるで対局者の先生と同じように指しているような臨場感を体験できる。棋譜並べの完全な上位互換だ。

阿久津八段は検討してよし喋ってよしの抜群の安定感
明るい笑顔を絶やさずに聞き手を務める貞升女流二段

明るさに救われる副立会の解説

豊島九段が1日目の107分の長考の後、133分と2度目の大長考に沈んだのは、当初の読みに何らかの誤算が生じていたのかもしれない。
結果として107分を投入した34手目☖4一玉が疑問手だったと報じられたが、後の豊島九段のインタビューでは本譜に変えて挙げられた推奨手はどれも当然候補として考えてはみたものの、どの順も後手に明解な良さが無かったと話された。
ただでさえ攻めの手段に乏しい後手番で、相手は先手番で9割超とほぼ負け無しの勝率を誇る藤井名人だ。じわじわとポイントを失い、負けに向かっていくくらいならと、苦しむ可能性は覚悟の上で、リスクが高い未知の局面へと踏み込んだ決断の一着だったといえる。

後手からの攻めの手段として使いたかった貴重な持駒の銀を手放し、56手目☖3二銀と自陣に埋めた手からは、どんなに悪くてもこの局面を引き受け、最後まで勝負を全うするのだという豊島九段の強い責任感が伝わってきて、見ているこちらまで胸を衝かれるような思いだった。
気が遠くなるほどの努力と準備を重ねてこられたはずが、その力を存分に発揮できない豊島九段の無念さを思うといたたまれなかった。

そんな中で、天真爛漫なかたと天然なかたが会場に到着され、空気がガラリと変わる。副立会の佐々木勇気八段と阿部光瑠七段による解説が始まった。
純真無垢な子どもがいると場が和むように、佐々木勇気八段の笑顔には、つられてこちらまで笑顔にさせられる不思議な魅力がある。将棋棋士として厳しい勝負の世界で生き抜いてこられた中でも、その苦労を感じさせないほどに明るさがまさっているような先生だ。

阿部光瑠七段は純朴なイメージそのままのかたにお見受けした。前日には主催の毎日新聞社のYouTube動画を視聴したが、初手から封じ手までの棋譜をお一人でどんどん盤に並べながら流暢に解説してくださっていた。
途中で指し継ぎのシミュレーションを挟んでも、まるで「現局面に戻る」ボタンでも押したかのように一瞬で盤面を戻してしまうスピード感に、プロの記憶力の凄さを目の当たりにした。
失礼ながら先生に関してはあまり存じ上げなかったが、将棋界にはこんな天才がゴロゴロしているという事実に改めて驚かされた。

その愛嬌で場にいるだけで華がある佐々木勇気八段
狙わずとも天然な発言⁈が笑いを誘う阿部光瑠七段

立会人登場

続いて立会人を務める佐藤康光九段が解説に立たれた。和服のさすがの着こなしぶりは元会長というよりも、永世棋聖でありつつ54歳の今も現役でバリバリと戦っておられるレジェンド棋士の風格そのものである。
すでに藤井名人優勢の局面となっていたが、藤井名人だけに偏る事なく両対局者へのリスペクトを感じる解説だった。
それには会長職を務めた経験からの配慮の素晴らしさというだけではなく、最高峰の名人戦というプレッシャーと戦いながら真剣に指し手を紡いでいる両対局者に対し、数多く同じ経験をしてきた棋士として、思わず感情移入せずにはいられなかったのかもしれないと感じた。

全方位への配慮とユーモアを交えながら話す佐藤康光九段

終局の儀

対局者の先生方が午後5時から30分の休憩に入られるのと同時に、大盤解説会場でも次の一手クイズが出題され、午後5時45分までの休憩となった。
館内のスタバで軽食を済ませて会場へ戻り、解説開始まであと数分残っていた時だった。対局室モニターに映し出された豊島九段が脱いでいた羽織を着ておられる事に気がついた。
しっかりと正座して真っ直ぐに背筋が伸びているが、盤面を凝視する様子は無い。
あぁ、豊島九段はもう決心されていると察知した。先生はいつも、投了の瞬間には決して見苦しい姿は晒さない。駒台に指先を揃えた手を差し伸べ、深く頭を下げて投了を宣言された。
その一連の所作には、終局の痛みを和らげるような美しさがある。
藤井名人も深々と返礼をして、第3局が終局した。
会場からはお二人の健闘を讃える拍手が送られた。
午後5時43分。夕焼けが対局室を染める前の時間だった。

名人戦は「仁・義・礼・智」

我々一般の人間には想像もつかない集中力で戦い抜いた将棋棋士は、脳を酷使する事で体重が1〜2Kg減ってしまい、終局後は疲労困憊で立ち上がることすらできない棋士もいるという。
終局後、2日間の壮絶な戦いを終えた豊島九段は静かに居住まいを正し、いつも通りの丁寧さでインタビューに応じた。
主催の朝日新聞社・高津デスクのXへのポストをご覧頂きたい。

棋士にとって終局直後は激しい消耗の極限状態とも言える。取り繕えない時ほど、人は本音に近い反応が出てしまうものである。インタビュアーの朝日新聞社の北野記者が、挑戦者の豊島九段にもお伺いしたい、と話を向けた瞬間、はっきりとした口調で「お願いします」と仰った。
はい、でも十分な返事を、お願いしますと口をついて出るところが、豊島九段がかつて名人を務め、また挑戦者としてこの舞台に戻ってこられた理由を全て物語っている。
ただ将棋が強いだけではない。仁・義・礼・智を磨いてこそ、この舞台に上がり、伝統ある名人位を務めるに相応しい棋士として将棋の神様に選ばれるのかもしれない。

決して傷つかないダイヤモンドのように

終局後、普段はめったに行かないのだが気分転換にバーに行ってみた。
誕生石カクテルという言葉に惹かれ、4月生まれの豊島先生にちなんでオーダーしたのはダイヤモンドをイメージした透明なカクテルだ。

4月の誕生石ダイヤモンドの石言葉には不屈・勝利の意味も

ダイヤモンドの名前はギリシャ語の「征服できない・屈しない」が語源で、鉱物の中で最高の硬度を誇る。豊島先生はどんな逆境にも決して挫ける事なく、いつも前を向いておられる。4歳で始めた将棋ももう30年。ずっと将棋が好きという純粋な気持ちで培われてきた豊島先生のメンタルの強固さは、ダイヤモンドに匹敵するかもしれない。

藤井名人が3勝し、豊島先生は第4局を角番で迎えることとなったが、苦しい状況でも心が折れるようなかたではない。固い信念とやり抜く気持ちの強さで、このままでは終わらせないと、第4局を見据えて動き出しておられるはずだ。もちろん、藤井名人も望むところとばかりに身構えておられるだろう。

大分県別府市で開催される第4局では豊島九段の先手となる。勝負は下駄を履くまでわからない。
愛知県が生んだ類まれな才能が激突する今期名人戦。豊島九段がここで一つ返すことで、シリーズの流れを変えることに期待したい。

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