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第82期名人戦第1局 ホテル椿山荘東京前夜祭レポ


3年越しの夢

私が将棋棋士の豊島将之先生を応援するようになって約3年。とても印象に残っているシーンがある。
囲碁・将棋チャンネルの番組「第27期銀河 豊島将之の素顔」で、先生がオーダーメイドスーツを採寸される様子を密着取材していた。
仕立て上がったスーツに袖を通した瞬間、それはまるで生き物のように、豊島先生の背筋に吸い付くように馴染み、肩から背中にかけて無駄のないシャープなラインの美しさがより一層際立ってみえた。
当代の名人という自信と誇り、目には見えない煌めきを纏った、最高の戦闘服だ。
「4月に行われる名人戦第1局の前夜祭で着ようと思います」と話された豊島先生。だがそれはその年、残念ながら実現しなかった。
2020年はコロナ禍により、名人戦は4月から6月へと開幕が延期されただけでなく、感染拡大を防ぐために全ての前夜祭や大盤解説会、指導対局といったイベントが中止、対局のみ実施という異例の事態となったからだ。

豊島先生のあの美しい立ち姿をぜひこの目で、最高の舞台である名人戦開幕局の椿山荘で見てみたい。それは私にとってどうしても叶えたい願いの一つになった。

雨にけぶる花霞の椿山荘

2024年4月9日。目白駅からバスに乗り、人生初であり将棋ファン憧れの聖地でもあるホテル椿山荘東京へ到着した。
椿山荘のロビーエントランスは3階に位置し、入った瞬間に視界に広がる庭園の借景が鮮やかだ。受付開始時間よりも少し早めに到着したので庭園を散策してみることにした。朝から生憎の雨空だったが、満開の桜の花屑や、あちこちに真紅の椿が散り敷いているのも趣き深く感じた。

東京都心とは思えない静かで心癒されるエントランス
対局が行われる料亭錦水は数寄屋造りの別棟にある
緑に深く覆われた対局室は先生方の深い思考に最適だ
椿が庭園のあちこちで目を楽しませてくれる

名人戦の伝統と格式に相応しい大規模会場

前夜祭会場は庭園を一望できるバンケット棟5階のグランドホール椿で、主催者の発表によると熱心なファン約250人で埋め尽くされた。開始1時間前に受付を済ませてテーブル番号を案内され、思い思いにファンの方同士で推し談義に花を咲かせる。たとえ初対面であっても、将棋が好き、推しが一緒というだけであっという間に打ち解けられるのがこうしたイベントの良いところだ。
同じようにあちらこちらで談笑の輪が広がっているのを目にしつつ、刻々と迫る開宴にむけて否応なしに緊張感が高まってくる。
華やかな空間とざわめきが、この名人戦を心から楽しみにする人々の気持ちでだんだんと膨れ上がっていく。
丸テーブルには約10人程度の乾杯用のグラスが予め並べてあり、ステージに向かってゆったりとした間隔で配置されている。
立食形式でも、決められた自分のテーブルがあると料理や飲み物を取りに行って、戻ってみたら席が無いという心配をしなくてよいのでありがたい。さすがの行き届いたホスピタリティが感じられた。

食事も落ち着いて楽しめるゆとりのあるテーブル配置

対局者の入場

主催・協賛の関係者が壇上に揃い、18時の定刻通りに前夜祭がスタートした。対局者の座席が空いている。「会場中央の扉にご注目ください」司会者の説明と共に一斉に振り返る。入室から観客の前を通りながら登壇されるという演出だ。
接客係に誘導され、藤井名人、豊島九段の順に拍手を浴びながら通り過ぎていく。ゆっくりと歩き、特に緊張した様子も無く、普段通り穏やかな表情の藤井名人。対する豊島九段の表情はキリリと引き締まっていて視線も真っ直ぐ一点を見つめている。すでに対局が始まっているかのような集中を感じた。

観客の拍手と共に入場される藤井名人
豊島九段は視線にも迷いがなく集中を感じる
豊島九段の美しい姿勢が日々の節制と鍛錬を物語る

私のすぐ目の前を通り過ぎた豊島先生の背中を見つめながら、この真っ直ぐな背中は一朝一夕には手に入らない、と改めて強く感じていた。
美は細部に宿るという言葉があるように、品格は背中に宿るものなのかもしれない。お顔を拝見せずとも、少しの体型の緩みも許されないオーダースーツを着こなす豊島先生の背中は名人戦の大舞台の主役を背負ってもしなやかな力強さに溢れていた。

対局者の決意表明

主催・協賛の挨拶の後、対局者へ花束贈呈が行われ、続いて対局者から明日の対局への意気込みが語られた。
まず最初に挑戦者の豊島九段が挨拶に立たれた。スタンドマイクの位置を微調整するなど落ち着いた様子は、約1年半のタイトル戦のブランクを全く感じさせなかった。関係各位への感謝の意と、桜の季節の椿山荘での対局は5年ぶりとなること、また新たな気持ちで高揚感や良い緊張感を持ちつつ対局に向かいたい、と話された。

5年ぶりに挑戦者として椿山荘に戻ってきた豊島九段

続いて藤井名人の挨拶では、棋戦の中でも最も長い9時間という持ち時間からも、しっかりと読みを入れて良い対局をお見せしたいと話されたのが印象に残った。
藤井名人の読みのスピードは詰将棋の驚異的な回答速度で誰もが知るところだが、それに長時間という条件が加わる。そして相手は同様に深く正確な読みでこれまで多くの名局を作り上げてきた豊島九段だ。一体どんな将棋が繰り広げられるのか。ますます期待に胸を膨らませずにはいられなかった。

深い読みを披露したいと抱負を述べる藤井名人

乾杯〜対局者退場〜解説陣のトーク

第1局の立会人を務める青野照市九段による乾杯の音頭で一斉に唱和しグラスを合わせた。対局者のお二人はウーロン茶を持っておられたので私もそれを真似してみたが、もちろんジュースやアルコールも種類豊富に取り揃えられている。対局者と同じ空間で同じものを頂ける光栄さに、アルコール無しでも酔いしれるような思いだった。
対局に備え対局者が退場された後は、副立会人を務める中村太地八段、千田翔太八段、大盤解説の藤井猛九段と脇田菜々子女流初段という豪華メンバーで対局の見どころや戦型予想などについてのトークショーが行われた。

話し上手な藤井猛九段がマイクを持つと場が明るくなる

新将棋会館のクラウドファンディングでも解説会が即完売した藤井猛九段は、軽妙な話術で観客を惹きつける。大盤解説会に参加される方がとても羨ましかった。
料理はデザートまで含め、素晴らしいの一言だった。例えば何気ない抹茶のケーキにも、桜の花びらを思わせるピンク色のチョコレートが散らしてあり、ビュッフェ形式であってもきちんと見た目の美しさに心が尽くされている事に感動した。

華やかで美味しいデザートはこれぞ椿山荘クオリティ

お楽しみ抽選会〜お開き

最後は受付で配られた番号札での抽選会が行われ、対局者の揮毫色紙や記念扇子、ポスターや椿山荘オリジナル商品など、当選したかたから次々と歓声が上がる。豊島九段の色紙に当選した方がご好意でお見せくださり、写真を撮らせて頂いた。
「初心」豊島九段の揮毫は、主催の将棋連盟代表として挨拶された羽生善治会長が、名人戦は第81期(将棋盤9×9のマス目の数)を区切りとし第82期は新たなスタートともいえると話された事と通じているように思えた。

「初心」が進化し続ける豊島九段の強さの秘訣だろう

第1局終了後に思うこと

この記事を書いている間に第1局は先手藤井名人の先勝に終わった。序盤早々から前例とは別れを告げ、お互いのセンスと読みで指し進める力戦となった。最終盤ではABEMA解説をされていた佐藤康光九段に「泥仕合」と言わしめる壮絶な読み合いへと突入した。

そもそも藤井名人は序盤から少しずつポイントを重ね、終盤では挽回不可能な差をつけての逃げ切り勝ちが多く、AIの評価値が相手に傾かない様子は藤井曲線と例えられる事もある。しかしこの第1局は、まるで違う様相を見せた。
後手ながら全く互角を保ち続ける豊島九段の底力。研究という予習には頼れない局面の連続に、棋士の真の実力が問われるまさにがっぷり四つの力勝負だった。

結果は藤井名人の先勝だが、このお二人の将棋は常に結果だけで語りたくはない。日々携帯中継などで何局も観戦しているが、藤井豊島戦にはその濃密さから何年経っても忘れられないほどの余韻がある。
何気ない時にもふと思い出してしまうような将棋をお見せくださるお二人の先生方が、名人戦第2局からも素晴らしい名局を紡いでくださる事を確信している。

春の季語になって欲しい「藤井豊島の名人戦」

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