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クリミア・ハン国史

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クリミア・ハン国かクリム・ハン国か

クリミア・ハン国かクリム・ハン国か

結論から言いますと「どっちでもいい」です。

15世紀にクリミア半島で成立し、1783年までクリミア半島とウクライナ南部を支配したチンギス・ハンの末裔をハンに戴いた国家について、日本語では「クリミア・ハン国」と「クリム・ハン国」という2種類の表記があります(「ハン国」を「汗国」と書く場合もありますが、これは単純に同じ称号をカタカナにするか漢字にするかなので除外)。

最近の文献やクリミア情勢をめぐ

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『クリミア・ハン国 歴史・国家・社会』第5章 オスマンとロシアのはざまで

『クリミア・ハン国 歴史・国家・社会』第5章 オスマンとロシアのはざまで

1683年、ポーランドとの戦争でポドリア、ロシアとの戦争でウクライナの南西部を併合し、オスマン帝国の最大版図を実現した大宰相カラ・ムスタファ・パシャは、満を持して第2次ウィーン包囲を敢行した。3月にエディルネを進発したオスマン帝国軍は、ムラト・ギライ率いるクリミア・ハン国軍と合流し、7月にウィーンを取り囲んだ。しかし、要塞化されたウィーンを落としあぐね、9月12日にオスマン軍背後のカレンベルクの丘

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『クリミア・ハン国 歴史・国家・社会』第4章 クリミア・ハン国の国家と社会

『クリミア・ハン国 歴史・国家・社会』第4章 クリミア・ハン国の国家と社会

クリミア・ハン国は、モンゴル帝国から引き継いだ中央ユーラシアと、オスマン帝国から影響を受けた中東イスラム社会の二つの政治的伝統に拠って立つ国家であった。その政治的な権力と権威、支配する領域と領民の範囲は、君主であるハンが名乗った称号に端的に表明されている。

1682年、クリミア・ハン国が政治的に対等、理念においては格下の相手とみなしていたロシアのツァーリに宛てた書簡における名乗りは次のようなもの

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『クリミア・ハン国 歴史・国家・社会』第3章 黒海北岸の支配者として

『クリミア・ハン国 歴史・国家・社会』第3章 黒海北岸の支配者として

1551年に即位したデヴレト・ギライの治世は、クリミアにとっての強敵に成長したモスクワ・ロシアの雷帝イヴァン4世との対決の時代であった。1530年生まれのイヴァン4世は、3歳のとき父ヴァシーリー3世の後を継いでモスクワ大公に即位し、1547年に初めて「全ロシアのツァーリ」を称した。サーヒブ・ギライの失脚とデヴレト・ギライの即位は、親政を開始したイヴァンが、サファー・ギライ死後のカザン・ハン国に介入

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『クリミア・ハン国 歴史・国家・社会』第2章 オスマン支配下における自立と拡大

『クリミア・ハン国 歴史・国家・社会』第2章 オスマン支配下における自立と拡大

1466年、ハジ・ギライが没すると、2人の息子、ヌール・デヴレトとメングリ・ギライの間でハン位をめぐる内訌が勃発した。はじめハン位を確保したのは兄のヌール・デヴレトで、敗れたメングリ・ギライはジェノヴァの植民都市であった半島南部のカッファに逃げ込んだ。

メングリ・ギライは、シリン部族の有力者エミネクとジェノヴァ人の支援を取り付けて再起し、1468年にハン位を兄から奪い取った。ジェノヴァ人は、今度

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『クリミア・ハン国 歴史・国家・社会』第1章 クリミア・ハン国の成立

『クリミア・ハン国 歴史・国家・社会』第1章 クリミア・ハン国の成立

地図を広げ、クリミア半島を探すと、目を引かれるのはその特異な位置関係である。確かに、2014年のウクライナ危機に直面したロシアの指導者たちが、国際社会から白眼視されるリスクを冒してでも、この面積2万5000平方キロメートルほどの小さな半島を、自国の勢力圏になんとしてでも確保せねばならないと画策した理由が察せられるように思える。

遠くモンゴルからカザフスタンを越え、南ロシアを経てウクライナに達する

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『クリミア・ハン国 歴史・国家・社会』まえがきに代えて

『クリミア・ハン国 歴史・国家・社会』まえがきに代えて

2024年3月18日、ロシアによるクリミア半島の「併合」から10年が過ぎました。この10年間にクリミア半島とその周辺で起こってきたことを考えると暗澹たる気持ちしか浮かびません。国際社会の平和と安定、地域住民の幸福に少しでもつながる未来があることを祈るのみです。

10年前、クリミア情勢をめぐってクリミア・ハン国とクリミア・タタールという存在が日本語の言説空間で認知される中で、かつて無謀にもクリミア

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