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宮崎裕也(薬師寺ジム)という男

 関西でボクシング記者をしている40代の私と、名古屋のジム所属の4回戦ボクサー。何の接点もなかったが、一度会っただけで、それも数分の短い会話で何か惹かれるものを感じてしまった。

     9月26日、神戸市立中央体育館。23歳の駆け出しのボクサーは2階席にいた。ボクシングの師匠である大場浩平(Sun-Rise)の6年ぶりの復帰戦を見るためだった。

 大場は5月に家族を名古屋に残し、単身神戸入り。私は「元日本王者が現役復帰へ」という話題で取材に行った。かつて世界を嘱望された大場の戦歴や復帰の経緯については割愛する。暗い話でも、なぜか明るいトーンで聞こえてしまう語り口に、私はいっぺんにホレてしまった。それでもう一度、「おかわり」でジムに取材に行ったほどだ。大場はいったん現役を退いた後、薬師寺ジムでトレーナーをしていた時期があった。指導者時代の思い出話を聞くうちに、「宮崎君」という名前が何度か出てきた。

 私が記者を始めた20年前に比べて、人を探すのには便利な世の中になった。それほど頻繁に更新はしていない宮崎裕也のツイッターを見つけた。DM(ダイレクト・メッセージ)でやり取りすると、彼は師匠の復帰戦を見に来るという。じゃあ会場で会いましょう、と約束した。

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 【写真説明】神戸まで大場の復帰戦を見に来た宮崎=筆者撮影

 当日、前座のカードの間のごく短い時間だったが、私は2階席の宮崎に会いに行った。彼は最初に「大場さんの生き方が好きで、今日は挑戦する姿を見に来ました」と言った。私は宮崎について、1勝(1KO)2敗という戦績くらいしか知らなかった。そこから佐賀県唐津市の出身であること、ずっと野球少年だったこと、高校卒業後に工場に就職して名古屋に来たこと、ジムで大場に出会ってプロを目指そうと思ったこと、練習を優先するために工場を退職して大場と同じ大手運輸会社に転職したこと…などを手短に語ってくれた。

   私の琴線に触れたものは何だったのだろう。工場に就職するために名古屋に来たのに、そこでボクシングを始め、師匠と呼べる人とも出会って、今では工場を辞めて競技に打ち込んでいる青年の像。しかもその師匠は現役復帰して離れてしまった。それでも彼は「大場さんの生き方が好きなんです」と言う。最近では珍しい純なものを感じた。5分ほどしか話していないが、彼が戦う姿を見てみたいなと思った。大場の試合は2回TKO負けだった。

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【写真説明】35歳の大場は復帰戦で13歳下の湊義生(JM加古川)と対戦。相手の勢いに圧倒され、2回TKOで敗れた=筆者撮影

    その試合からほどなく、宮崎の次戦も決まった。

 11月29日、愛知県刈谷市の「あいおいホール」でのフェザー級4回戦。相手の桑原信行は岐阜県高山市の杉田ジム所属の30歳で、デビュー戦になる。1、2部とあるがタイトルマッチはなく、若手中心の興行だ。今回、私はファンの一人として、宮崎からチケットを買って見に行くことに決めた。その試合を心から楽しむために、電話でボクサー・宮崎裕也の来歴を聞いてみた。

 宮崎は1997年5月17日、佐賀県唐津市で生まれた。3きょうだいの末っ子で、姉と兄がいる。父は少年野球のコーチで、兄とともに幼少時からプレーした。典型的な地方の野球一家といえよう。唐津工高に進むと2年の時から中軸を打ち、3年夏は「1番・左翼」。チームは佐賀大会3回戦まで進み、宮崎は計8打数3安打の成績を残している。野球については「あきらめがついた」ということで、一般就職を選んだ。機械科で学び、名古屋市のアルミニウム工場に就職が決まった。

 名古屋は工場が多く、唐津から一緒に「集団就職のように」出て行く仲間も多かった。それが普通だと思っていた。港区の工場では昼勤、夜勤があった。寮もすぐ近くにあり、高校を卒業してすぐの若者には十分な給料ももらえた。生活に何の不満もなかった…はずだった。

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【写真説明】工場で働く宮崎=宮崎のブログより、掲載許可あり

 「昼勤やって、夜勤やって、そのサイクルで一日が終わって。『一日の中で何も燃えるものがないな』と思い始めて。まだ家族だっていないのに」

 夜の町に出たり、彼女をつくって遊んだり、そうしたことには気持ちが向かなかった。そこでなぜボクシングが浮かんだのか。一年中、野球一色の宮崎家だが、大晦日はたいていテレビでボクシングを見ていた。父は格闘技も好きだった。「ボクシングなら燃えることができるんじゃないか」。寮の近くのジムを探した。松田ジムと薬師寺ジムがあった。松田ジムのほうが近かったが、薬師寺会長の名前を知っていたことから後者を選んだ。

 入門は21歳だった。ジムまで地下鉄を乗り継げば往復で500円ほどかかる。「長い目で見たらもったいない」と、45分かけて自転車で通うことを自分に課した。通い始めた頃、大場は森武蔵の専属トレーナーだった。他のトレーナーにミットを持ってもらったが、すぐにこれだと思った。大場はその後、森とのコンビを解消。宮崎ら若い選手の指導に回った。

 少しずつ、プロになるという決意は固まっていった。一方で、勤務との両立が悩みだった。夜勤の日は、ジムで練習してから自転車で寮に帰り、ご飯をかき込んで現場に立った。勤務は夜9時から翌朝8時まで。3時ごろに睡魔が襲ってくるのが常だった。22歳になると大場に相談した。プロになりたい。そのために仕事を変えてもいいと思っている――と。大場は自身も勤務する運輸会社を紹介してくれた。2人は同じ営業所で働くことになった。そして宮崎は昨年10月、プロテストに合格する。

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【写真説明】デビュー戦直前の宮崎(右)と大場=宮崎のブログより

 デビュー戦は昨年12月、大阪で決まった。大場トレーナーには技術的なことより、まず精神的なところを鍛えられた。サンドバッグ打ちではいつも追い込まれたという。「22歳の今日は戻ってこない。今日、頑張れ」。そんなふうに言うのが大場だった。テクニシャンとして知られた男が指導者となり、「結局、大事なのはメンタル。僕はそこがクソだったと気付いた」。

 デビュー戦。体は切れていた。ジャブもよく出たが、1回終了間際にサウスポーの相手の左をもらった。何とかゴングに救われたものの、2回が始まると陣営がタオルを投げた。最終的には薬師寺会長の判断だった。大場は「やらせたいとは思いましたが、そう(危ないと)見えたということは、そうだったのかもしれません」。控室で、宮崎は「まだやりたかった」と言った。

 この試合を迎えた時点で、大場が現役復帰をめざしトレーナーを辞めることは決まっていた。宮崎にも伝えていた。大場はその日、仕事の都合もあって先に名古屋へ帰った。名古屋駅に着くと、自転車を新栄のジムに置いてきてしまったことに気付いた。とぼとぼ歩いて取りに行く途中で宮崎からLINEが来た。「また大場さんと組みたいです」。それが無理な話だと、宮崎も分かっていた。だが、「まだまだ教えてもらってないことありすぎる気がして」。1戦1敗。それも痛烈に倒され、ここから一人立ちするのは心細いと思った。

 大場は少し考えてこう返した。「俺はいなくなるけど、強くなってほしい」「残された時間で、あなたに全部教えるから」。宮崎は時間を惜しむようにすぐ練習再開。そこから大場の得意だったアッパーやボディー打ちなど、細かい技術的なところも仕込まれた。組んだのは1年半。いったん2人はその関係に終止符を打った。

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【写真説明】今年7月、初勝利を挙げた宮崎=宮崎のブログより

 宮崎と大場の、それぞれの2020年が始まった。

 宮崎は新たなトレ―ナーに教わり、新人王戦にエントリー。コロナ禍で延期された後、7月12日に国内では再開後初の興行が刈谷であった。無観客ではあったが、1回37秒TKOで初勝利を飾る。もともとモーションが少ない右のカウンターパンチが得意で、ここぞで打ち込める度胸もある。その良さが存分に出た試合だった。「初めて倒したのですが、感触がなくて。ちゃんと当たったのかなって」。続く8月の中日本準決勝では逆に相手の右で倒され、2回TKO負けだった。3戦して全てKO決着。通算してまだ約8分しかプロのリングで戦っていない。

 次が4戦目。来年、新人王に再挑戦することは決めている。「絶対勝たないといけない。次に勝って勝敗五分で新人王に出たいんです」。今回のテーマは勝利。それに尽きる。都合で大場は来られなくなったが、初勝利の時も我がことのように喜んでくれた。どこかできっと、見てくれている。

(敬称略)

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