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ミニヤコンカ山麓のチベット娘・ヤンツォと一枚の写真

 その谷を初めて訪れたのは2008年秋、四川大地震調査の一環の偶然であった。四川省カンゼ・チベット族自治州に位置する大雪山脈の最高峰であり、横断山脈の最高峰でもあるミニヤコンカ(7,556ⅿ)を展望できる場所を求めて、ミニヤコンカの西のユーロンシの谷に入って行った。その谷のサムジュンという村では、たまたまルワさんのお宅に滞在させていただいた。谷の外との交流の少ないこのような村では訪問者を警戒しつつも歓迎し、珍しいので好奇の目で見られる。私はチベットでは毎度、名を「日本のペンバ」と名乗るので、日本という場所のチベット人だろうというくらいに思われるようだ。中国人よりもむしろ警戒されないことが多い。

 ルワさんの孫娘のザシ・ヤンツォは当時16、17歳くらいで、村一番の美人娘といわれていた。ヤンツォは人懐っこく明るい娘で、私もちょうど同じ年頃の娘を持つ身ということもあり、すぐに仲良くなった。ルワさんはヤンツォをとても可愛がっており、年頃の彼女がいつか嫁にとられるのかを考えると辛いようで、ヤク300頭以上もらわないと絶対に嫁には出さないと言っていた。

ルワさん宅でバター茶を作ってるところ、左がヤンツォ。


 2010年4月に今度はミニヤコンカ山群の山座同定を目的に再度、サムジュンを訪れ、またルワさん宅にお世話になった。ヤンツォの姿がなかったので聞くと、昨年谷を出てジャーグンバ村に嫁に行ったという。ヤクを何頭もらったのかと尋ねると、あまり金持ちの家ではなかったと苦笑していた。明るいヤンツォのいない家は火が消えた様で、なんだかさびしい感じだった。だけど村に滞在している間に多くの村人と再び交流を重ね、調査の合間に「ペンバ!ペンバ!」と声をかけられるようになった。


 この帰国後機会あって、この時の山座同定の写真などを横断山脈研究会にメールで紹介した。すると会員のSさんから返信があり、15年前にサムジュンを訪ねたときの写真が送られてきた。

 この写真を見た時ふと、左端の幼児は年頃から考えて、ヤンツォの幼い時ではないかと思ったのだ。
 いずれ、このサムジュン村付近の夏の高山植物も調査したいと思っていたので、その旨を研究会メールで知らせたところ、もし再訪するなら村人に写真を届けてほしいと、会員から続々と写真が送られてきた。多くが15年、16年前のもので、コンガ寺で修業していた漢人の王徳生氏や、ケサル王伝説のイーゼン(口伝弁師)、ペンツォ・ワンドイ氏の写真も含まれていた。

 そして今回(2010年7月)、偶然、早稲田大学山岳部からこの山域の調査の依頼があって、登山協会と折衝しなければならなかったので、ついでに高山植物観察も兼ねて、またもサムジュン訪問となった。村には宿ができており、もう民家に泊まることは無くなったが、預かった村人の写真はルワさんにまとめて託そうと、早速、家を訪ねたところ、なんと赤ん坊を背負ったヤンツォがいるではないか。「ペンバが来た!」とヤンツォが喜んでくれた。「ヤンツォ、もう出戻ったのか?」と聞くとそうではなかった。

 すばらしい偶然が待っていたのだ。翌日からシャバーズという祭りがあるとヤンツォをはじめ、村人たちが皆興奮しているのだ。離散し村を離れた村人も全員帰省してくるのだという。
 今チベットの地方の村でも、若者の都会への流出や政府の移住政策により極端な変貌が起こっている。
 かつて日本の登山隊の多くは村の名士のスランさんにお世話になっていた。この一家は村を出て康定に移住しておりもう会えないだろうと思っていたが、祭りで帰省していた。それだけではない、ケサル王伝説の弁師ペンツォ・ワンドイ氏も、コンガ寺で修業した王徳生氏も戻っているではないか。
 この祭は村のかつての賑わいを取り戻すかのような信じられない状況となり、持参した15年前の写真はなんと全員に直接渡すことができたのだ。写真が撮影された当時はまだスマホもない時代で、村でカメラを持っている者もなく、写真は貴重であったので、この写真が村祭りに花を添えることのなったのだ。
 
 祭りは放牧地に各家族がテントを張って、泊まりがけで宴会が行われる。かつて日本の登山隊がお世話になった村の名士スランさんとルワさんは、なんと兄弟であり一族で大きなテントを張っていた。写真を持参したので、各テントに招待され酒のシャブダ!(乾杯!)攻めにあった。なんだかこっちまで村に帰省したかのような錯覚となり、なつかしい気分になった。私の田舎も、祭りや盆、正月は親戚が集まり酒を飲んでにぎやかだったことを思い出した。

 写真の中の少女は、やっぱりヤンツォだったのである。この偶然の出来事は不思議な気分であった。この縁を結んだのは、やはりこの写真に写っている、この地を偶然訪れた先輩たちだったのだと思う。

 Sさんから送られた写真には、以下の手紙が添えられていた。
「1995年4月ミニヤコンカへトレッキングに行きました。このトレッキング隊をきっかけに、この横断山脈研究会が発足しました。しかし、その時のメンバーであり、研究会の創設メンバーであった仲間は既に山で他界されました。サムジュンに泊まった日に、近くの河原で村の可愛い子供さん達と撮った写真をお送りします。後列左から、故Iさん、故Sさん、故Mさんです。この写真に写った隊員はみな帰らぬ人となりました。最近は、ラダックやザンスカールのゴンパを訪問するたびに、この写真を持参して、本堂で般若心経を唱えさせていただいて旧友の御冥福をお祈りしています。S拝」


 これは、チベット娘ヤンツォが時を越え、結んだ不思議な縁であった。写真は離散したみんなを引き寄せたかのように、それぞれ直接渡すことができ、不思議な気持ちと、何か切ない気持ちが残った。ヤンツォはすっかり大人になり、たくましく美しい母になていた。

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