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「彷徨ったチベット・ミャンマー国境地域」

 「入院することになったから」とTさんから電話があったのは2021年6月下旬だった。コロナ禍の前までは毎月の日本山岳会役員会に出席されており、4月の例会でも顔を合わせて酒を飲んだ。半年程前から体が少し不自由になられた様子に気付きお聞きしたところ、持病が少し悪くなったとの話であった。入院の理由も持病の治療ということであったが、「蔵書の整理をしたい。寄贈先なども相談したいので一度見に来てくれないか」とおっしゃっており、退院されたらまた連絡しお伺いしましょうと伝えていた。
 所属されていた日本応用地質学会からの訃報が転送されてきたのが8月に入ってすぐであった。入院の一報から1か月しかたっておらず、ご本人も退院するつもりでいらしたので、お亡くなりになったと知り驚いた。
 Tさんと一緒にした山行といえば、東チベット・カンリガルポ山群調査(松本徰夫隊長)が思い出される。日本山岳会福岡支部は2001年からカンリガルポ山群の調査を始め、2005年の第5次まで調査隊を派遣した。Tさんは退職後に第4次隊から参加されたが、専門である地質や探検史の考察において活躍された。特に、キングドン・ウォードが初めて紹介したミャンマーのカ・カルポ・ラジ(Ka Karpo Rozi5881m)への思考もあり、その北方に位置するのがカンリガルポ(崗日嘎布)山群であるため熱烈な思いを秘めていたように思う。

 Tさんと共著で執筆した『ヒマラヤの東・崗日嘎布山群』(櫂歌書房2007年)の「ビルマからの崗日嘎布思考」の項に、故松本徰夫先生が創設に関わられた九州大学探検部とTさんについて紹介されているので引用したい。

 九州大学探検部の創設と同時に入部したのがTである。彼は理学部地質学科在学中で、後に松本と同じ岩石学を専攻した。〔中略〕彼を見こんだ私は、彼に探検すべき地域として北ビルマ~チベットの夢を語り、彼に日本山岳会の入会をすすめた。〔中略〕当時の入会はかなり厳しく、まだ紹介者は本部役員またはその経験者でなくてはならなかった(と記憶している)ので、深田久弥さんにお願いした。深田さんが茅ケ岳で亡くなられたので、日本ヒンズークシュ・カラコルム研究会会長の吉沢一郎さんにお願いしたと思う。〔中略〕Tは北ビルマ探検への夢を求めて、カ・カルポ・ラジ入域の可能性を探るため、単身ビルマに入域した。〔中略〕Tがビルマを訪れたのは1972年2月である。その頃、彼は多忙を極めており、ビルマのみに集中することができなかった事情があった。それは、彼が中心的に計画をすすめていた九州大学・長崎大学合同の尖閣列島学術探検(松本徰夫隊長)が、1970年12月に朝日新聞後援で実施されたことである。これに続いて、1971年1月から1年間オーストラリア鉱山会社で資源調査に従事したからである。オーストラリアから帰国の途上ビルマに寄るため、キャンベラのビルマ大使館でビザを取得する。Tは1972年2月14日、ラングーン(後にヤンゴンとなる)のミンガラドン空港に降り立つ。〔中略〕そこ(入山交渉をした機関)には、ビルマ北部国境付近の地図が何枚も広げられていた。地図には2種類あって、1種は1/2インチ対1マイル(約1/128,000)と、他の1種はこれより詳しい地図である。Tはこれらの地図のなかでも、カ・カルポ・ラジ付近を喰い入るように眺める。〔中略〕Tは、垣間見た地図が念頭からはなれない。ほとんど国境にあるカ・カルポ・ラジからわずかに北~西に行けばチベットである。北ビルマからチベットにかけて、何と未知の山や谷が多いことか。この地に自分が果たして行くことができるだろうか。Tの興奮はしばらく治まりそうにもなかった。

 このように書かれており、Tさんは早くからミャンマー・チベット国境の山々に情熱を傾けられていたことがわかる。カンリガルポ山群調査ではいくつかの新発見、新知見があったが、特にTさんが活躍されたことで思い出深いのが、世界で初めて確認し写真に収めたミャンマー国境に一番近い「東端の6327m峰の実在」があった。旧ソ連製20万分の1地形図には、山群東端に6327m峰が図示されているが、これまで全く情報がなく未知のままであった。この地域は未開放区で当然目立った活動が厳しい状況下にあったので、少人数の別働隊として私とTさんだけで出かけ、Tさんが警戒しながら心配そうに下から見守る中、私は国境北方の西側斜面を登り、南西方向に巨大な雪山を確認した。これは3つのピークと氷壁からなる台形の堂々とした山容であった。観察地点、周辺の地形、山岳の方位から幻の東端の6327m峰であることが確認された。この山塊周辺は、19世紀後半から20世紀前半にかけてパンディットA-K、ベイリー、キングドン・ウォード、コールバック、トレーシーらが、また近年になって中村保氏が踏査している。しかし、彼らの報告や地図に記載がなく、まして写真はまったくない。そのため、Tさんに過去の文献を詳細に検証してもらい、「探検家はこの未踏峰を見たか?」を論述していただいた。ここで結論だけ述べると「これまでの探検家はこの峰は見ていない」ということであった。したがって、この観察と写真撮影は、世界で初めてということで発表した。

 その後、Tさんとコンビを組んで、Tさんの発案でいくつかの辺境を探査し報告も発表した。2011年の「ミャンマー・ヒマラヤ視察」、2012年「ブータン大横断とチベット国境」、2015年「アルナーチャル・プラデッシュのチベット国境探訪」など、どれも強烈な思い出がある。
 今瞼を閉じるとチベット山中のミャンマーとの国境地帯で、あの時二人だけで密偵のようにして山の斜面をよじ登ったことを思い出す。私たちは純粋に地図の空白地帯のまだ誰も見ぬ未踏峰を観たいだけであった。それが展望できるはずと地図上で推定し山群対岸の山の斜面を登ると、山の神が味方したのか空は晴れ渡り、また国境警備や遊牧民など人に会うこともなく、静寂にその巨大な山塊だけが読み通り目の前にあった。そして「次はあの谷を詰めて峠を越え反対側へ行ってみたい」と話し合った。

 その後、ますます国境地帯の開放は遠のき、国境警備も厳しくなってしまい、この夢は絶たれてしまった。Tさんは今、天に昇られたので、民族も国境も未開放地も関係なく自由に探訪できるはずである。おそらく魂はミャンマー・チベット国境あたりを自由に楽しんでいるに違いない。貴重な体験を共有できたことに感謝し、ご冥福をお祈りいたします。


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