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読書記録『集中講義・精神分析 上』(藤山直樹)

 読了日:12/9

 この本は、精神分析勉強プロジェクトの導入編と位置付けて読んだ。精神分析関連の本を読むのはこれで三冊目だが、フロイト『精神分析入門』は難しかったし、ホーナイ『精神分析とは何か』は内容をあまり覚えていない。したがって、この本を通じて精神分析におけるいくつかの基本的な考え方や用語を学んだ、ということになる。定着のためにもここにまとめておきたい。

用語

退行:分析の過程のなかでクライアントが子どもとして立ち現れる部分(82頁)
転移:クライアントのこころのなかの人間関係のモデル(「内側のもの」「こころのなかの世界」)が、分析において反復されて移し出されること。人間は考えることが苦痛であるため、その代わりに反復が行われる。精神分析の仕事は、この繰り返しから自由になって考えるよう促すことである(82-3頁)。転移は、いわば病気と正常な心性との中間領域として、治療の中心的なフィールドになる。(195頁)
抵抗:分析の過程の中で、いいことが起こることを邪魔する動き
心的現実:空想だけれども患者にとっては非常にリアリティのあるもの。これによって人間は病気になるし、これに基づいて人間は生きている。(43頁)
ヒステリー:意識の問題(乖離)と身体化の問題(転換)とに分かれる。解離は、健忘や離人症、多重人格などのこと。転換は、神経機能の脱失のこと。(132頁)
無意識:三つの意味がある。記述的な意味では、単に意識していないという事態のこと。力動的な意味では、意識から排除されるという力関係の中で起こったダイナミックなものであるということ。システム的な意味では、人間のこころにある無意識というシステム(⇔意識というシステム)のこと。(140頁)
外傷説:何か苦痛なできごとがあって、それが持ちこたえられなくなって、抑え込んでしまった結果症状が出る、という考え方のこと。『ヒステリー研究』における精神分析以前のフロイトは、アンナ・Oのケースをこのように分析した。⇔内因欲動説。(141頁)
内因欲動説:心的なことはすべて外側から起こっているのではなく、内側の、その人の本質的な欲動から起こっているとする考え方のこと。(161頁)
原幻想:生物学的に遺伝されている、体験生成の準備性のこと。(163頁)
幼児性愛:赤ちゃんからよちよち歩きの子供にセクシュアリティが存在しているという考え方。(179頁)
倒錯:本当の目的とは違った何かのために使用して快感を得ること。性倒錯のなかには、性目標からの倒錯と、性的対象からの倒錯とがある。(180-1頁)
二相説:幼児性愛の時期のあと、潜伏期を経て二次性徴・成人の性愛へと発展していく、という形で二相的に人間の性的活動が構築されているとする考え方のこと。(187頁)
反復強迫:反復してくる患者の不条理なものを、精神分析状況のなかに入れて取り組むという、精神分析の基本的な技法の枠組みのこと。(201頁)
意識・無意識・前意識:前意識は、考え得ることのなかで注意が向いていないこと。無意識とは、考え得ないこと。フロイトは中期理論の局所論(第一局所論)をこのように把握した。(203頁)
自体愛・ナルシシズム(自己愛)・対象愛:フロイトの中期理論において、発生発達論とずれたところに生まれた考え方。自体愛においてはリビドーが自分の身体に向かうが、自己愛においてリビドーは自分というもの全体(ego)へと向かうようになる。最終的にそれが他人に向くようになると対象愛になる。(221頁)
自我理想:自分が完璧であってパーフェクトであるというナルシシズムの世界の残遺物。大人のなかにもこうした自分の理想が残っている。超自我というは発想の萌芽。(221頁)
:対象の表象だけでなく機能まで取り入れ、自分のこころのなかが一部対象と同一化してしまうこと。
死の本能:一つの有機体としてまとまっていたものを解体しようとする人間の本来的な傾向のこと。(231頁)
自我・超自我・エス:フロイトの第二局所論。エスは、グチョグチョとした本能の塊のようなもの。自我はそれを無意識に抑圧し、処理する。超自我は、いわばエディプス・コンプレックスの後継者であり、罪悪感の巣のようなもの。(235-7頁)
不安信号説:不安というのは危険状況が自分に近づいていることをシグナルとして伝えてくるものだという考え方のこと。抑圧するから不安になる(古典理論)のではなく、不安だから抑圧するという考え方。
力動的観点:リビドー(欲動の力)と、その葛藤やぶつかり合い、防衛などの動きによってこころを概念化する視点のこと。(262頁)
局所論的観点:こころのなかに複数の場所があり、それらが独立した機能を営んでいるという形でこころを概念化する視点のこと。(263頁)
発生論的観点:発達や退行といった時間の次元をもってこころの在り様を考えていく視点のこと。(264頁)
生成論的観点:乳児のこころのなかに起こっていることや、ものが考えられたりイメージできるようになるまでに人間のこころのなかで起こっていることを、先験的再構成的(=哲学的)に考える視点のこと。(265頁)

基本的な考え方

精神分析の性格

 精神分析はプラクティスから生まれた学問である。したがってここでのデータは人間の主観的な体験である。たとえば、精神分析でいう発達論とは、患者と行った臨床素材のなかから再構成した乳幼児期から生まれた物語である。本当の発達で起こっていること(=ファクト)ではない。

 人間は生物学的な衝動(=本能)に突き動かされており、それを自分の物として体験していく(=パーソナライズする)必要がある。そうして初めて人間は人間らしく生きることができるのである。精神分析は、このように生物学性をパーソナライズすることに格闘する人間を扱っている、といえる。

エディプス・コンプレックスについて

 エディプス・コンプレックスとは、「人間が人間として生まれてくる限り脳のなかに必然的に準備されている、人間が人間らしいこころを持つために、さまざまな主観的、主体的体験をするために、意味をオーガナイズするプリンシプルみたいなもの」である。これを体験することによって、我々は「成熟した、ほぼまっとうな罪悪感」を体験できるようになるのである。 

・フロイトの発生発達論

 フロイトは、すべての子どもが、口や、肛門、ペニス、性器といったさまざまな快感領域にくっついた人間の空想を体験しながら、性的な世界をだんだん自分のものとしてマスター、コントロールし、最終的に家族と子ども(次の世代)をつくっていけるような存在になるというストーリーをつくった。これは客観的事実ではなく、患者の変化を生み出す解釈の準拠枠である。

 精神分析では、身体感覚の形で空想していたり、対人的な圧力の形で空想していたりする世界があって、それがだんだん言葉に練りあがってくる道筋があると考える。これは、からだの快感や不快感と無縁なことを乳児は考えていないという前提のもとに人間のこころを考えてみる、という思考実験である。したがって、自分が生物であるという持って生まれた構造のなかでしか生きられないという構造主義の考え方に繋がっている(187頁)。

・フロイトの生成論

 『心的現象の二原則に関する定式化』(1912年)によると、乳児のこころには、非常に原始的で具体的なこころの在り方しか存在しない。これを一次過程のこころという。一次過程のこころにおいては、言語によって媒介される「願望」は未だ存在せず、具体物のやり取り「ニード」があるのみである。願望が自分の物であるのに対して、ニードは誰にも考えられることのない考えとして、いわばIではなくitとして存在している。人間は、このような「ものを考えられないこころ」と「考えられるこころ」とのあいだを揺れ動きながら生きている。

・中期フロイト

 フロイトの中期理論においては、発生発達論的な観点(口愛期⇒肛門期⇒男根期)、生成論的な観点(一次過程のこころ)、ナルシシズム・対象関係論的な観点が同時に現れており、フロイトはそのなかでものを考えていた。(224頁)

局所論と主体性について

 精神分析においては、意識と無意識が別々の自律性で動いており、その相互作用・相互対話のなかで人間のこころが生まれていると考えられる(局所論)。したがって、自分のこころが一つであるという考え方、あるいは私たちが主体性として考えているものは、全体的な動きのなかで生成された一つの錯覚であるということになる。(41頁、205頁、213頁)

欠如について

 精神分析には、欠如とか喪失とか、つまり物事を失うことのなかで、人が人らしくものを感じたり考えたりできるようになっていくという基本的発想がある。フロイトは『悲哀とメランコリー』という論文によってこの考え方に到達した。精神分析の過程において不在を重視するのはそうした理由からである。



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