好きとか嫌いとか

長い大学の夏休みが明け、2ヶ月ぶりにキャンパスへと向いた日、私の身にほんのちょびっとだけショッキングな出来事が起こった(ハタから見たら本当に大したことない)。

コロナ禍によってオンライン授業が今もなお多い中、私は幸運にも数少ない友人を得た。初対面のコミュニケーションを特に苦手とする私は、入学当初は4年間ぼっち生活であることを半ば覚悟していたが、オリエンテーションで隣だった人が偶然同じ専攻で、そこから芋づる式に友人が増え、寛容で心優しい人たちに恵まれ、ライングループにも入れてもらえて(ここ特に凄い大きな奇跡)、順風満帆な大学生活を送ってきた。むしろ満足過ぎるくらいであった。

その日は初めての実技の体育で、前期にはなかった実技(しかも大の苦手な運動)の授業にかなり緊張していた。前日までワクチンの副反応で外出できなかったため、慌ててその日に揮発性の高い運動用の服を買った。指定された集合場所はかなり大学の中でも上のほうにあり、かなり歩く。ひーこら言いながら歩いていると、A君と偶然会った。夏休みには誰とも会わなかったので、2ヶ月ぶりの再開である。

A君は確か3番目くらいにできた友達で、物腰柔らかでいつもニコニコしていてあまり身の上について多くを語らない子である。私はそれが彼の特徴であり、長所だと思っている。同じ部活を経験していたこともあって、坂道を上る途中も会話が途切れなかった。

その日の授業はガイダンスということもあり、半年ぶりの体育座りで先生のお話を聞くだけで授業は終わった。そよそよするポリエステルの5000円の服はちょっとだけ泣いているように見えた。

その体育の授業は、私を含めて大体6人くらいの知り合いが受講していた。そこには、B君という友達がいた。長身で端正な顔立ちをしていて、明るい性格をしている。正直、私が彼の横に並ぶとまるで月とスッポンだ。そして気遣いや思いやりが言葉の端々に溢れている。

授業終わりの帰り道、私とA君とB君ともう1人(C君とする)の4人で坂を下った。まだまだ暑いとはいえ、木陰になっていてずんずんと勇み足で下ると風が吹いて気持ちがいい。私はA君と、B君はC君との2×2の列になって積もる話をたっぷりしながら帰った。A君は帰り道の都合で少し手前の曲がり角から帰るようだった。「バイバイ」と4人で手を振り合い、(さて2人の話を聞いていなかったから、どう会話に溶け込もう)と思案していたところ、B君はC君に向かって「なんで話してくれなかったんだろ」と訝しげに告げた。

俺は一瞬何のことかわからず、「もしかしてA君との話に没頭していた俺の事か」と思い、心臓がギュッと縮む思いがした。人の眼前で本人の悪口を言うことでグループから抜けさせる大胆な手法かと思ったが、しばらく冷や汗をかきながらB君の愚痴を黙って聞いていると、不満の矛先は俺ではなくA君へ向いていることが分かった。それとほぼ同時に、会話の作用点は俺の方向に傾いた。「なんかちょっと話がかみ合わない時があって...」「他の奴ら(おそらくグループ内の人間)とは話せるんだけど...」

俺はあっけにとられて、頭が真っ白になった(船場吉兆の女将)からか、愛想笑いの皮を被った苦笑しかできなかった。私の下手で微妙なリアクションを素早く察知してくれたのか、B君とC君は誰かを傷つけない笑いに話題の線路をそれとなく変えてくれて、事なきを得た。

これが私の引っかかっている一連の出来事である。

しょうもねぇ~~~と思った方もいるだろう。私はこの2ヶ月間ほとんど家から出ず、ウジムシみたいにインターネットの捻くれたユーモアに齧りついていただけだったから、このような刺激物に久方ぶりに出会ったもので、自分のショックだった出来事リストの1位に余裕綽々で躍り出たのである(実際に2日間くらい勝手に凹んでた)。

ちなみに誤解の無いように言っておくが、B君はA君のことは本当に苦手なんだろうけど、いわゆるガチの悪口ではないというか、心からの悪意を持っている風ではなかった。恐らく、昔の松ちゃんがやっていたような、誰かを陥れる笑いが、今回私がへっぽこだったから成立しなかっただけなのではないか、と私は踏んでいる。次の週の授業では普通に話してた感じだったし。

そしてこういうことは、文章化による自己分析に限る。かく言う私は、毎晩トイレに行けなくなるくらいバチ怖かった「This man」や「ご〇げんよう 観客」や「臼井〇人 遺書」といったホラー画像のどこが怖く感じるのかを数時間大ズームや遠くからの観察などで研究して、克服したことがあるのである。(検索は自己責任で)

あと、蛭子能収のロケ番組の放送事故とか。

アレはまだ怖いや。


なぜショックを受けたのか

理由は1つに絞れないだろうが、陰口の対象が自分の友人だったことがおおかたの理由だろう。勿論、私は友人と決めた人を親密度で差をつけたりするようなことはしたくない。A君もB君も私の大切な友人であり、たまたま文脈の便宜上でABの順番ができただけである。どちらが正しいとか、どちらが悪いとか、そういうことは決めたいと思わない。誰かに愚痴をこぼすのは当然だと思っているから、友人の愚痴を言ったからってB君の評価が下がることは無いし、A君にも同情する。どちらも私にとって失いたくない大切な友人であり、この関係が崩れることは私も善しとしないから、A君本人にこの一連の話を言うつもりも(当然)ない。蒸し返しもしない。このnoteに書き綴るのが初めてである。どうかこの記事が天文学的な偶然にせよ、本人たちの目に届かないことを祈る。

話が自己弁護で脱線したが、好きな人を悪く言われて快く思わないのは当然だろう。私は自分の好きなコンテンツを誰かに茶化されたり悪く言われたりするのはあまり気にも留めないが、これは立体化された現実に存在する精神を持った個人じついての話であって、あまり誰かに「好き」を共有して気持ちを発散する機会もないので当然の話である。

私も人間だから、他人の悪口で友人と盛り上がった中高時代も無くはない。ただそれは話者の間で”嫌い”という気持ちが共通していたからである。どちらかがどちらかと好き嫌いがずれていたら、その時点で会話の軋轢が生じる。私はA君の愚痴に便乗する気も、愚痴の内容も思いつかなかったことや、私のコミュ症が相まって「愛想笑い」というどちゃクソ滑った反応に終わったのである。

もう一つの理由は、「自分もこういうこと別のとこでは言われてるかもしれない」と心のどこかで感じたからだ。A君とB君の話が噛み合わないとなると、A君との話に齟齬を感じたことがない私とB君は話が噛み合わないことになるのでは...?というトモダチ三段論法が成立してしまった。

イヤしかし、記憶を振り返る限りじゃ私はB君と話の成立はできているし、イヤそれも勝手に自分が思っているだけの事だから...もしかして、私はA君とも会話がズレているかも...!?

要らん考えをあぐねる結果になってしまいました。あーあ!!

というか、今思えばそのせいで普段は圧倒的に聞き手に回りがちな私も、その愚痴の後で必死になって普段使わない舌をこねくり回して話題を展開させようとしてたわ。惨め。

最後の理由としては、私の勝手な思い込みがあったからだ。「自分が好きな友人同士なら、きっと馬が合うだろう」という思い込みである。「52ヘルツのクジラ」という、今年の本屋大賞にも選ばれた作品もそれに結び付けられる。少々内容に触れるネタバレがあるので注意してほしい。黒く塗りつぶした場所がネタバレの箇所である。


主人公のキナコの恋人の主税ちからと、キナコの命の恩人であるアンさんという登場人物がいる。キナコは自分が大好きな二人ならきっと仲良しになれると確信し、二人を呼んで飲み会を開く。しかしキナコの意に反して、二人は一切仲良くなることは無く、寧ろ険悪な雰囲気で飲み会は終わってしまう。キナコは悲嘆に暮れることになった。これには理由があるのだが、そこは関係ないので触れないことにする。


この愚かな思い込み、直さなきゃいけないですね。そんなのいつもあてはまる訳が無いし。

ちなみに改善点といいますか、個人的には愛想笑いよりも良いエンドが見られる選択肢があったのでしょうか。A君の愚痴に無い便乗をしても、私の罪悪感が痛むし、そこが気になります。

とにかく、文章に起こして私の心情を吐露できただけでもかなり軽くなったと思う。それに、この状況でもっとつらい思いをしてるのはB君の方だと思うし。私がB君の立場なら、3日は考え込んでる。

ということで今回はもう眠いので、ノー結論でフィニッシュです。

3500字も書いたの初めてかもしれない。

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