見出し画像

送別会

2001年11月23日。ダラムサラ滞在は明日までである。明日にはダラムサラを去り、デリーに向かわなければならなかった。これでもうあのオヤジとはしばらく(永遠に)あえないだろうな~と思い、ムーンライトカフェにチャイを飲みにいった。静かな夕暮れ。通りはいつものように外国人旅行者と地元のチベット&インド人、それに牛や羊が通り過ぎていく。しかし、この日の夜はなんだかセンチメンタルになっていた。ダラムサラに滞在すること84日間。いろいろなことがあり、多くの人(ほとんどはチベット人であるが・・・)と出会い、交友を深めた。ボランティアの仕事も最初は手探り状態だったが、この頃になると慣れてきてツェリン・ドルジェの仕事も手伝えるくらいになっていた。しかし、名残惜しいが日本に帰らなければならない。長期で滞在する人は荷物を実家に送るなどして身軽な形でダラムサラに来ていたが、私は横浜のマンションがそのまま借りっぱなしになっていたため、一度戻らなくてはならない。インドの観光ビザは6ヶ月有効なのだが、日本からのオープンチケットは90日であった。帰りのチケットを捨てて6ヶ月滞在し、ネパールに行ってまたインドに帰ってきたノリちゃんのような人も中にはいたが、私の場合は事情が違う。また、ダラムサラも1月に入れば9-10-3のレストランも店を閉めるらしく、閑散とするらしい。このあたりで引き返すか・・・といった心境であった。
ムーンライトカフェの前のベンチは片付けられていたので、オヤジの招きでカフェの中に入った。いつのチャイは路上でシューズドクターとバカ話をしながら飲んでいたので店の中に入るのははじめてであった。店内には私のほかに2人の外国人がチャイを飲んでいた。
「もうそろそろ日本に戻らなければならないんだ」
と言うと、そこにいたメンバーは口々に
「今度はいつ来るんだ?」
と声をかけられた。旅人はいつか去らねばならない運命だ。再度ダラムサラに来られるとすれば、とにかく日本のマンションを解約して大量の本とレコードをとりあえず実家におくる手配をしなければならない。また、それ以上に経済的な余裕がなくなったのも日本に帰らなければならない理由のひとつであった。ダラムサラで自活していく自信はない。ツェリン・ドルジェと組んで一緒に仕事をしては?とNGOの高橋さんも言っていたが、それもいいかもしれないと思った。しかし、それにしても処理しなければならない事柄が多すぎる。大量の荷物をインドに持ってくるわけにはいかないし、大事な本やハウスミュージックのレコードを処分する気も起こらない。さて、日本に帰ってどうするか?そんな思いが頭を掠めるようになっていた。ダラムサラにはじめて来たときには前途要望だったのだが、現実は厳しい。月10000ルピーの稼ぎは私には無理である。
「今夜は、日本食レストランはプライベートパーティーらしいよ」
カフェの中にいた一人の男がそうつぶやいた。
「それはね~私の送別会だよ」
私が日本に帰る前日、高橋さんも日本に戻るらしい。2人のためにレストランのスタッフたちが送別会を開いてくれることになっていたのだ。
9-10-3に帰るとT女史がすでに酔っ払って私を呼びに来た。
「PEMAさんも一緒に飲みましょうよ!!!」
「何を飲んでいるんですか?」
「ジンライムです」
「わたしはね~お酒はちょっと・・・」
ダラムサラ最後の誘惑である。ここまできたら少々飲んだところでなにごともないとは思ったが、私は断酒を決意してインドに来たのである。その信念を貫かなければ・・・しかし、アルコールの誘惑はこのときばかりは強かった。飲みたい!!!いや、飲んではだめだ!!!心の中で天使と悪魔が戦っている。結局は天使が勝利し、飲まずにすんだのだが危なかった。私は立派なアルコール依存症者である。飲むことは簡単だが、そのあとの禁断症状が怖い。インドでは日本のようにどこでもアルコールが手に入ることはない。ひっそりと営業しているリカーショップに行ってまずそうなウィスキーを買うしか手はないのである。そもそもインドには飲酒の習慣はない。
1階のレストランに下りていくと、すでに宴会は始まっていた。レストランのスタッフや日本人ボランティアが総出でパーティーを開いてくれていた。メインの料理はマトンカレーだったように記憶する。デリーに戻ったときはカレーを食べたが、ダラムサラではこのときが初めてのカレーだった。インドのカレーは辛いかというとそうでもない。まあ、ここは日本食レストランである。日本人好みの味にしているのだろう。
宴もたけなわになったころ、私は日本人ボランティアのクミちゃんにひとつお願い事をしなければならなかった。それはアムネスティー・インターナショナルの拷問禁止キャンペーンで来日したケルサン・ペモという尼さんに日本からの薬を渡してほしいということだった。それは日本人タンカ絵師のユミ・ツェワンからメールで頼まれていたことだった。最初は住所を教えてほしいとのことだったが、彼女のいるシュクセップ尼僧院はダラムサラの番外地にあり住所はない。マクロードのとんでもない僻地にその尼僧院はあるのである。だから日本食レストランでクミちゃんが働いているときにレストラン宛に薬を送ってクミちゃんに尼寺まで届けてもらわないとならなかった。
「クミちゃん、ひとつ頼みたいことがあるんですけど」
「何でしょう?」
「シュクセップ尼僧院って知っていますか?バスターミナルから小道を下っていってチョツェリン僧院の先にあるんだけど・・・住所がないんですよ」
「行ったことはありませんが、大体の場所は分かります」
「日本からタンカ絵師のユミ・ツェワンが薬をここに届けるのでそれをシュクセップ尼僧院のケルサン・ペモに渡してほしいんです。私が行ったときは彼女、ネパールに行っているらしく会えませんでした。私がいたら私が持っていくんですが、日本に帰らないといけないので代わりにお願いしたいんですが、どうでしょう?」
「ユミさんをご存知なんですか?ユミさんがダラムサラにいたとき、部屋を2人でシェアしていたんですよ。メールアドレスも知っていますから聞いてみますね」
そんな話をしていると高橋さんも話しに加わってきて、
「PEMAさん。ユミさんをごご存知なんですか?」
と聞いてきた。ご存知どころか、知り合いと言うか友達であった(過去形)。
その後宴会はそろそろお開きとなるところであったが、レストランのマネージャーのソナム氏からプレゼントがあるという。外でタバコを吸っていた私はレストランに引き返し、ソナム氏のところに行った。ソナム氏は「ありがとう」と言いながら私に一対の数珠を手渡し、カタ(チベットの祝福のためのスカーフ)を首にかけてくれた。そのときにもらった数珠は今でも大切に持っている。カタの方は確かダライラマが来日したときにボランティアだけが特別謁見の許可をもらったとき、私は行けなかったので変わりに仲間に手渡すように頼んでいた。結局手渡すことはできなかったらしいが・・・
ダラムサラの夜はかなり寒くなってきたが、その寒ささえ感じられなかったほど人間のつながりと言うものを体験させてもらった。レストランのスタッフではない私だけが送迎されたわけである。他の英会話を教えに来ている欧米人のボランティアとは別扱いの待遇だった。この恩はいつか返さなければなるまい。
(その後、9-10-3と協力関係にある日本人NGO:ルンタ・プロジェクトは、代表の高橋さんがアメリカに留学して事実上現地スタッフはいなくなったようだ。また、9-10-3の隣にもう一軒施設を作ったらしい。味噌と豆腐の工場はどうなったのであろう?)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?