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3. 最初の受験

最初の受験の年、東京藝術大学美術学部建築科の受験科目は、共通一次(この年が最後の共通一次で、翌年からセンター試験になる)が英語と国語の2科目。本試験の1次試験が立体構成。2次試験が建築写生、日本史、世界史、物理、面接であった。
まずは、高校在学中に共通一次を受験する。函館で共通一次を受験する場合、会場は北海道大学の水産学部のキャンパスで行われる。北海道大学というと、札幌駅の隣に広大なキャンパスが広がっているのであるが、水産学部は1935年より十数年間、函館高等水産学校として分離していた時期があって、キャンパスと研究所は函館市内にあった。
試験1日目は、私には関係のない科目だったので、同室者の3人が試験に臨んで外出し、ガランとした寮の4人部屋の2段ベッドの上段で寝転びながらペントハウスやプレイボーイなどのソフト路線のエロ雑誌を読みあさって過ごした。
2日目は同室者と一緒にバスに乗って北海道大学水産学部のキャンパスへ向かい、英語と国語だけ受験して、さっさと一人、試験会場をあとにした。そのまま寮に帰るのもつまらなかったので、確か、五稜郭の西武デパートに立ち寄った。
函館西武店は、残念ながら2003年に閉店してしまうが、函館の老舗の丸井(東京の丸井とは別系列)や棒二森屋とは雰囲気が異なり、外観も含めて都会的な感じで、本屋はかなり充実していて、倉橋由美子の文庫本をまとめ買った思い出がある。宮西先生のグループ展もここであって、何度か先生の本気の油絵をここで見た。
宮西先生といえば、馬の絵が有名で、写実的に描写するのではなく、青い空間にぼうと浮かび上がるように馬を描く、どちらかといえば幻想的ともいえる画風で、ほとんど抽象画に近く、青い画面の中にかろうじて馬の姿が判別できるときもあれば、フォルムがわりあいはっきりと描かれるときもあった。
さて、季節は進み、2月初めには母校では卒業式があり、落ちこぼれていたものの、なんとか恩情で卒業する頃ができて、奈良の実家へ帰ることになる。母校の卒業式に関してはほかのところで書いたので割愛したい。そして、いよいよ東京藝術大学美術学部建築科の本試験に望むことになる。
東京での受験は、日帰りというわけにはいかず、ホテルに1泊することになった。東京で受験するのは母校の高校の入学試験以来で懐かしい。高校受験の時は、母親と一緒に新橋の第一ホテルに宿泊して受験に臨んだが、今回は私一人である。ホテルは上野の近くの老舗の観光ホテルに泊まったと思う。チェックインを済ませて受験会場の下見を兼ねて上野公園をブラブラ散歩して、東京都美術館に立ち寄った。
上野恩賜公園内は、東京国立博物館、国立西洋美術館、国立科学博物館などの国立博物館・美術館をはじめ、上野の森美術館や東京都美術館などが集まっていて、一大文化エリアになっているが、たまたま入ったのは東京都美術館だった。
東京都美術館は、東京都美術館条例に基づき「都民のための美術の振興を図る」という目的で都が設置する公立美術館である。指定管理者制度により東京都歴史文化財団が管理を受託している。上野・浅草副都心に隣接し、美術館や動物園などの文化施設が集積する通称「上野の山」の一角に位置し、東京を代表する文化施設群の一翼をなす。
その時、なんの展覧会をやっていたのか忘れてしまったが、ただ単に美術館の雰囲気を味わっただけのような気がする。そのままホテルに引き返した。夕食は何故か六本木のアークヒルズにあったフランス料理のレストランで魚のコースを食べた。あまり美味しかった思い出はない。なんとなく気取った店で、居心地が悪かった。
受験当日の朝、ホテルのレストランで朝食を食べていると、受験生だと思われる一人の女の子が、母親と一緒に食事をしていて、何故か私の方をチラチラと見てくるので気になった。この女の子とはその後何度か視線を交わすことになる。朝食の時には気づかなかったが、東京藝術大学美術学部建築科の試験会場に入ると、私のそばの座席に座って、その時も、何度か視線が交わった。試験途中、昼食後の試験会場に再入場するために教室の前で待っていた時も熱い視線を感じた。さらに、合格発表の時に、不合格を確認して、浪人生活をどう送ろうかと考えながら、奈良に戻るためにボーッと上野駅に向かおうとした時にも彼女に見つめられた。どうやら、彼女も不合格だったらしい。あの子は、どういう気持ちで私を見つめていたのか、今となっては確認しようもないが、その時、私の中にナンパな心があって、彼女に声でもかけていたら、夢のような浪人生活と、豊かな青春の1ページが刻まれただろうと、今から思うと残念だ。どうも私は高校・大学時代を通じて、女の子との付き合いよりも、音楽やサブカルチャーに熱くなっていて、全く女っ気がなくても平気だった。
初めての東京藝術大学美術学部建築科の本試験の思い出として、入試会場で合否通知詐欺に引っかかってしまった。受験会場に向かう当日の朝、試験場周辺で、大学関係者を装った合否電報通知業者に話しかけられ、言葉巧みに合否案内申込の書類にホイホイと個人情報を丁寧に馬鹿正直に記入し、また手数料?としての3000円も払ってしまった。はじめは、遠方からの受験生も多いことだし、大学受験も初めてのことで、そういうシステムもあるのかな?と思って疑問を持たなかったが、3000円の手数料を要求する、その強引さと落ち着きのなさを見ると、怪しさが一気に増して来て、これはややこしいことに巻き込まれてしまったなと思うのだが、相手は、釣った魚を逃さないと言わんばかりのしつこさで、集合時間と試験会場の教室を探さなければと気が焦っていた私は根負けして、そいつに3000円を投げつけると、急いで東京藝術大学美術学部の校門をくぐった。
さて、東京藝術大学美術学部建築科の本試験の1次試験は、立体構成の1本勝負である。試験会場の机の上には、スチレンボードと透明のボンド、カッターと定規と数枚のスケッチ用紙が置かれていた。要するに、スチレンボードを使ってテーマに沿った立体表現をするのだが、後に、美術予備校の課題制作や、美大に入ってからの設計製図の実被課題での建築模型の制作などで何度もお世話になるこのスチレンボードは、私にとっては、この時、初めての出会いであった。
世の中、お店の店頭POPや建築模型、等身大パネルなど、実は身近なところでよく使われている素材であるスチレンボードをご存知だろうか?
スチレンボードは、「ポリスチレンフォーム」という一般的には住宅断熱材に用いられる発泡プラスチック素材を、看板などにも使用できるよう適度な強度を持たせてボード状にしたものをいい、イメージとしては、発泡スチロールの粒子をもっと細かく、高密度にした感じだろうか。発泡スチロールと比べると発泡の度合いもかなり抑えられているので、ボコボコした感じは無く、表面も滑らかである。ただし、材質は発泡スチロールと同様ですので、屋外での使用には向かない。軽くて、加工が容易で使い勝手のいい素材で、自分で好きなサイズにカットして使え、持ち運びがしやすい。厚みは製造メーカーによって様々で、看板・サイン業界では5mm厚または7mm厚が主流である。私は建築模型などで、5mmと3mmのスチレンボードをよく利用した。サイズも多く、タタミ一畳に相当する900×1800mmのサブロクサイズや、ポスター貼りに最適なA1判・B1判、写真パネルを想定したL判規格など、様々な種類がある。
初めての東京藝術大学美術学部建築科の立体構成の課題のテーマは、「対比を立体で表現しなさい」というものであった。非常に抽象的で、学科試験のように正解がある問題ではない。400人の受験生がいたら、400通りの解答になり、試験官は、その400通りの解答の中からテーマをよく表現している立体を選んで合否を判断するのである。また、学科の試験と違い、前後左右の受験生がどういう立体を作っているのかが丸分かりで、はっきり言ってカンニングのし放題である。ただし、カンニングをしたところで正解がないので全く意味がなく、周りと似ている立体表現をしてしまうと、明らかにカンニングしたと丸分かりで、試験官の心障を非常に悪くしてしまうので御法度である。あくまでも、自分オリジナルの表現が求められる。私も参考までに、近くの受験生の製作過程を見て、なるほどと思ったものの、真似はできないので、かなり苦労させられた。また、現役時代の立体構成の製作では、特にテーマもなく、ただなんとなく立体を作っていたので、はっきり言うと、なんの受験対策もしなかったのと同じことである。にもかかわらず、東京藝術大学美術学部建築科1本勝負だったので、いかに馬鹿で、世間知らずで、怖いもの知らずだったのが、今にして思えば滑稽で呆れてしまう。
最後に、芸術大学・美術大学の実技試験の特徴を挙げると、その試験時間の長さが挙げられる。普通、一般の大学の入試の試験時間は、大学によって多少の違いがあるものの、90~120分あたりが多いのではないだろうか。ところが、芸術大学・美術大学の実技試験では、試験時間が6時間~7時間に及ぶ。当然、連続して6時間~7時間の試験時間を格闘するわけではなく、途中、食事休憩が挟まれて、1つの試験が午前・午後にわたって行われるのである。ちなみに、私が最終的に入学する多摩美術大学の建築科(いまは環境デザイン学科)の最新の実技試験科目を見てみると、鉛筆デッサンだけで良くなっていて、その試験時間は5時間である。デッサンのモチーフが何かにもよるが、5時間の鉛筆デッサンは、かなりの描き込みが必要である。私が3回受験することになった東京藝術大学美術学部建築科の立体構成は7時間だったと記憶する。
さて、初めて受験した東京藝術大学美術学部建築科の本試験1次試験の結果は、言うまでもなく、既述したように不合格であった。そして、この合格発表の日から、私の2年間に及ぶ浪人生活の幕が切って落とされた。


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