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少年ナイフとザ・ポップ・グループ

先日、ブックオフオンラインで注文していた少年ナイフの「GREATEST HISTORY(1995年)」と「Rock Animals(1993年)」、ザ・ポップ・グループの「For How Much Longer Do We Tolerate Mass Murder?(1980年)」が届いたので、聴いているところである。
少年ナイフは、1981年に結成された日本のガールズバンドで、バズコックスやラモーンズ、キンクス、ビートルズといった洋楽の影響をストレートに受けつつ、中高生レベルの演奏技術、会社への愚痴とアメコミ的キーワード、奇天烈な言葉遊びを散りばめた庶民的かつセンスオブワンダーな歌詞、キャッチーなメロディとパンク&ローファイなサウンドで、テープやCDを制作しながらマイペースに活動を展開していた。元々は大阪のOLたちによるローカルバンドであったが、90年代にアメリカでオルタナティヴ・ロック、グランジムーブメントが巻き起こると海外のアーティストたちの熱烈な支持を集め、逆輸入の形で日本でも人気を博す。日本のインディーバンドを発掘しに来ていたK Recordsを主宰してBECK、ジョン・スペンサーを手がけることになる大学生の青年、カルヴィン・ジョンソンだった。卒業旅行で訪れた東京の輸入レコード店で、彼が手にしたのが少年ナイフのアルバム。彼女たちの音楽を気に入ったカルヴィンは後に少年ナイフにアメリカでカセットを出さないかと連絡をとる。そして、1985年にたった2年遅れでインディーズ1stアルバム「Burning Farm』が米のK recordsからリリースされる。レッドクロス、ホワイトフラッグといったパワーポップ系のバンドと親交を深め、「オリエンタルなガールズバンド」としてじわじわとアメリカ国内での人気を高めていく。本人たちはガールという風貌でも年齢でもないのだが、アメリカ人から見ると日本人女性は全員少女のように見えるらしい。89年にはソニック・ユース、L7、レッド・クロスら海外アーティストによる少年ナイフトリビュートアルバムも発売された。ラモーンズ、バズコックスなどの影響下にあると言え、ポップでパンクでキュートでバブルガムでサイケデリックで時にシュールな世界観、ヘタウマな演奏、あまりにもマイペースでまったりしたキャラクター性が持ち味で、音楽的には初期パンクの影響が大きく、楽曲はたいてい3分前後で終了するのが特徴。基本的にブリティッシュパンク風のサウンドだが、モータウンなど60年代アメリカンポップスから90年代ヘヴィメタルに至るまで、好きな音楽はなんでもすぐ取り入れる雑食性を持つ。アメリカ進出時、日本人女性のバンドが英語の歌詞の楽曲を演奏するという物珍しさも有ったが、現地ではオルタナティヴ・ロックが一大ムーヴメントに成りつつあり、少年ナイフの楽曲が受け入れられる要素は十分あった。ニルヴァーナのカート・コバーンは、「Burning Farm」を愛聴していたということで、ついにはニルヴァーナの英国ツアーのフロントアクトを務めることになり、日本でメジャーデビューアルバム「Let's Knife」がリリースされる頃にはレディング・フェスティバルに出演していた。また、ニルヴァーナはシークレットギグで少年ナイフの「ツイスト・バービー」をカバーしている。結成当初の山野直子と中谷美智枝はタイガー魔法瓶に勤務していた会社員だった。
少年ナイフのアメリカ進出は動画でも紹介されているので、2つほど紹介したい。

一方のザ・ポップ・グループは、イギリスのブリストル出身のポストパンク・バンドである。その妥協を知らない不協和な音は、パンク・ロック、フリー・ジャズ、ダブの間を橋渡しするものである。彼らの歌詞は(そうではない方が多いが)政治的な性格を有している。デビュー・アルバム「Y (最後の警告)」は、生じつつあったポストパンク・サウンドの初期の試金石である。レゲエのベテラン・ミュージシャンであるデニス・ボーヴェルのプロデュースによるこのアルバムは、今日でもこの時期のベストの一枚とされている。しかしながら、暫くの間、海外では廃盤となっており、高価な日本からの輸入盤を買うしかなかった。このアルバムはチャートに入ることはなかったが、バンドはラフ・トレード・レコードと契約した。この時期に、ベースがサイモン・アンダーウッドからダン・カトシスに代わっている。ラフ・トレードに移るとすぐ、彼らはおそらく一番よく知られているシングル「ウィ・アー・オール・プロスティテューツ」を発表した。このシングルにはフリー・インプロバイザーのトリスタン・ホンジンガーがチェロでゲスト参加している。1980年にはセカンド・アルバム「ハウ・マッチ・ロンガーがリリースされた。このアルバムにはアメリカのラッパーの元祖であるラスト・ポエッツが参加している。ジャケット写真はアンドレ・ケルテスの手によるもの。そのすぐ後に、ザ・ポップ・グループは、ドラマーとマネージャー(クリスティン・ロバートソンとディック・オデルが同じスリッツと片面ずつのシングル「意志あるところ (Where There's a Will...)」をリリースし、ダブやファンクといったジャンルの探求に関心を深めていった。1981年にグループが分裂した後には、メンバーは、ピッグバッグ、マキシマム・ジョイ、ヘッド、リップ・リグ&パニックといったグループを結成した。このうちリップ・リグ&パニックにはネナ・チェリーが参加している。一方、ヴォーカルのマーク・スチュワートは、On-Uサウンドと協力して、最初はマーク・スチュワート・アンド・マフィアとして、そして後にはソロ・アーティストとして、作品を発表した。ちなみに、On-Uサウンドは、1979年に音楽プロデューサーのエイドリアン・シャーウッドが設立したレコード・レーベル、及びサウンド・システムで、アフリカン・ヘッド・チャージ、ダブ・シンジケート等、レゲエ/ダブのアーティストを中心に、ニュー・エイジ・ステッパーズ、マーク・スチュワートら、ニュー・ウェイヴのアーティストの作品もリリースしている。 レーベルの名称は、エイドリアン・シャーウッドの友人の名前である「ONUS」を由来としている。また、重要という意味も含んでいる。


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