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TCV

2001年10月23日。もうかれこれ2週間ほど姿を見せなくなっていたツェリン・ドルジェとロプサン・ダワ・ラが気になって、朝、朝食を済ませると、一路TCVへ向かった。ツェリン・ドルジェはTCVのコンストラクション部門で働いている。ロプサン・ダワ・ラはそのTCVの偉いさんである。昨日の下痢の襲撃の後遺症が残っていて、ろくに何も食べてなかったので身体は疲労感と栄養不足でへとへとになっていた。それでも2人がどうしているのか気がかりだった。もし、CADの授業について来られないようだったら私がダラムサラにいる意味がなくなってしまう。一介の旅行者で滞在していてもよかったのだが、何せ狭い町である。観光だけなら1週間で見てまわれる。しかし、外国人旅行者の間では1ヶ月くらいの余裕を見ておけば、運がよければダライラマに謁見できるので長期滞在している旅行者も数多い。しかしそれを除くと暇な田舎町である。
昨日、一日、チャイを一杯飲んだだけで何も食べられなかった私は、よろよろしながらTCVへと向かっていた。TCVはマクロードのバスターミナルからMall Roadを進んだ4km先にある。歩いて1時間くらいだろうか?以前、ヒマラヤを見に手前のダル湖までは行ったことがあるのだが、TCVには入らなかった。寄宿生の学校である。部外者がノコノコと入っていけるとは思わなかった。いちおうアポイントメントが必要かもしれないと思いつつ、この日の私はなんとしてでもツェリン・ドルジェとロプサン・ダワ・ラに会っておかなければならなかった。彼らにCADを教える仕事が無くなったら私がダラムサラにいる理由は一つもない。
話を先へ進める前に、ここでTCVの紹介をしておこう。
TCV(Tibetan Children Village=チベット子供村)の前身は1960年に道路工事に従事していたチベット難民労働者の子供たち51人を預かる乳児院がはじまりである。当初はダライラマ14世の実姉ツェリン・ドルマ夫人が責任者となっていたが、彼女が亡くなるとダライラマ法王の実妹ジェツン・ペマ女史がツェリン・ドルマ夫人の遺志を継いで、現在TCVの運営にあたっている。ジェツン・ペマ女史はブラッド・ピット主演の映画「セブン・イヤーズ・イン・チベット」でダライラマの母親役を演じていたのでご存知の方も多いと思う。
ダラムサラのTCVには、約2000人の子供たちが寄宿して教育を受けていうる。ダラムサラのほかにはチベットの難民学校は全部で85校あり、その内、68校がインドにあり、約28,000人の子供たちが学んでいる。チベットの農村部は大変貧しく、3年間の初等教育以上を受けられる学校はほとんどない。都市部でも中国語教育を嫌った親たちが、チベット語教育を受けさせるために、子供たちをインドへ送るケースが増えてきている。その多くは、ヒマラヤの5000メートル級の峠を徒歩で越えて亡命してきている。10才以下の子供たちだけでも毎年約400人の子供がおり、凍傷や拘留の危険を犯してヒマラヤを越えてきているのである。子供村は寄宿生活で、1人のハウスマザーが30人もの子供の生活を見ている。大量の洗濯物も手洗いだ。ベッドは2段ベッドで、1段に2~3人で寝ている。衣類、勉強道具が不足していて運動靴のない子供もいる。決して恵まれた環境はないTCVであるが、毎月200人もの子供たちが亡命して来ており、慢性的な物不足に苦労しているそうである。ちなみに、チベットから子供たちをインドのTCVに送りこんだ親たちに対しては厳重な処分が言い渡されると言う。自分の子供たちを亡命政府のチベット人学校に通わせている公務員に対して、またさらなる厳重取締りがあったと、1998年10月にTCHRD(チベット人権・民主センター)から報告されている。
Mall Roadを休憩しながら30分ほどトボトボ歩いていたとき、前方からバイクに跨って走ってくるツェリン・ドルジェに出くわした。お互いその時は驚いたが、冷静さを取り戻し、
「この2週間、何やっていたんだよ。ずっと待っていたのに。」
と小言を言うと、
「バイクが故障してしまってマクロードに来られなかったんだよ」
とぬかすではないか!
「それなら連絡の一つでも入れろよ」
と言いかけたが、そこはチベット人である。別段、申し訳なさそうな素振りも見せず悠然としていた。とことん平和な民族である。
とりあえず、バイクの後ろに跨ってTCVへと向かった。途中、
「ダワ・ラに会いたいんだけど」
と言うと「OK!OK!」と言ってダワ・ラの家に連れて行ってくれるらしい。
TCVの入り口を入ると、そこは学校と言うよりも一つの町のようだった。ツェリン・ドルジェの家の脇にバイクを停めると、ダワらの家へと向かった。
ダワ・ラは「JAPAN HOUSE」と書かれた家に住んでいた。話を聞くと日本のどこかのお寺の寄付で建てられたと言う。ツェリン・ドルジェがノックをして中に入っていくと、私を見つけたダワ・ラは驚きはしたものの、「ようこそ」という表情で中に招き入れてくれた。9-10-3の私の部屋と違って南向きの日当たりの良い部屋に案内してくれて、ミルクティーを入れてくれた(チベット人なのでマサラの入ったチャイではない)。
「CADの自習はちゃんとしていますか?」
若輩ながら私は教師と言う立場である。教え子がちゃんとCADの勉強をやってくれることが気にかかる。するとダワ・ラは自分のパソコンを持ってきて、
「分からないところがあるんですが・・・」
と言う。どれどれと見てみたらVector Worksの設定のところでズレを伴ったコピーを選んだままになっていたので、
「ここのチェックははずしておいてください。そうしないと、ちゃんと数値入力した距離にコピーや移動が出来なくなりますから」
この日は平日だったにも関わらず、二人とも仕事をしているような気配がなかったので聞いてみると、10月23日は、TCVの創立記念日だそうだ。この後、グラウンドで式典があるほか、午後からはミラレパの生涯をモチーフにしたアチェ・ラモ(チベット・オペラ)も上演されるらしい。ミルクティーのお代わりを飲むと早速ツェリン・ドルジェがグラウンドに案内してくれた。貴賓席に座ると早速バター茶が回されてきた。嫌いだとは言えずちびちび飲んでいると減った分だけまた注がれる。チベット式の歓迎だ。
「いま、ターラー菩薩(チベット名ドルマ)のテーマで生徒たちが行進しているよ」
流れている歌をよく聴いて見ると、
「オーム・ターレー・トゥターレー・トゥレ・スヴァハー」
と聞こえる。確かにターラー菩薩の真言だ。
しばらくその式典を眺めていると、お昼になったのでツェリン・ドルジェが手招きした。
その日、ダワ・ラの家で何をご馳走になったのかは残念ながら忘れてしまったが、この日の私は前日から何も食べていない。ただ、ここでまた食中りでもしたら大変だと思ったのはよく記憶している。万が一の場合はトイレに駆け込まなくてはならないのだから。しかもこの日は運悪くトイレットペーパーを持ってきていなかった。
昼食が終わると今度は入り口傍の広場でアチェ・ラモだ。立ち見だったがダワ・ラの弟に案内されて見やすい位置を確保した。
演じられるのはチベットの聖人ミラレパの生涯である。歌も台詞もすべてチベット語だが、ミラレパのストーリーは知っていたので理解できた。
ミラレパはチベットで最も愛されている修行者兼詩人である。ミラレパはチベット南部のクンタン地方でチベットの名家キュンポ氏の父と、ニャン地方の王族の出身である母の元、1040年に生まれた。ミラレパの「レパ」とは「綿布の人」と言う意味である。後年、行者になったミラレパが粗末な綿布を纏っていたところからそう呼ばれている。ミラレパの父、ミラ・シェンラブ・ギャルツェンはミラレパが7歳のときに亡くなり、ミラレパの後見人として伯父と伯母に遺言状で依頼した。しかし、二人は財産を山分けしてしまい、ミラレパ母子を召使として虐待した後、追い出してしまう。母の要請により、二人に復讐をするためにミラレパは黒魔術を習得するが、復讐を成功させるや、黒魔術が引き起こした殺人の悪行を深く反省し、38歳のときチベット仏教チベット仏教カギュ派の創始者マルパの下に弟子入りし、苦業を重ね瑜伽自在者となった。後に、彼はミラ尊者と呼ばれているようになる。また四つの空性の教義を詩にうたい詩人としても尊敬されていて、彼の教説『ジェツンミラレペグルブム』や伝記『ジェツンミラレペナムタル』は今日でも広くチベット人たちに愛読されている。
「大地の肥沃さと
 青い空のもたらす雨
 このふたつは
 すべてを益するために交わる
 そしてこの交わりは
 聖なるダルマの中にある」
(ミラレパ)

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