見出し画像

TCVにやってきたカルマパ17世

2001年11月22日。今日こそは本当のTCVのお祭りである。朝早く起きると、朝食をとらないでムーンライトカフェでチャイを飲んだ後、MALL RORDをテクテクと歩いてTCVへと向かった。途中、チベット人の団体がタクシーに乗ったり歩いたりして続々とTCVへ向かっている姿が見受けられたので、やはり今日はお祭りがあるのである。昨日の閑散とした道ではない。マクロードから40分ほど歩いただろうか、ダル湖のところに様々な屋台が建っていた。味見をしようとは思わなかったのでそのまま通り抜けたのだが、今になっては食べていればよかったな~という思いがしている。チベット料理のトゥクパやモモに加えてインド料理もあったと記憶するが定かではない。食べていれば思い出しただろうに・・・とにかくTCVへ早く行かねば・・・
TCVに入ると真っ先にツェリン・ドルジェの家へ向かった。TCVの入り口近くに彼の住まいはある。アパートで部屋数は多くなかったが奥さんと一緒に暮らしているらしい。私が訪ねていくと奥さんは暖かいミルクティーを入れてくれた。
「CADの勉強はやっている?」
と聞くと、
「・・・・・・・・・・・」
「やっぱりな~~~~」
手描きの図面を見せてもらうと日本の大学一年か専門学校の生徒レベルの図面でお世辞にも上手いとは言えなかった。線が粗い。それに図面も鉛筆の芯で汚れているときている。それでも外壁の石積みのテクスチャーを懸命に描いているのは好感が持てた。自分の仕事に誇りを持っているのだろう。図面を見せるヤツの顔はうれしそうだ。建築がすきなんだろうな・・・早くCADをマスターしてくれればいいが、私のダラムサラ滞在は明後日までである。いまさらどうにもできないが、CADを体験できたことだけでも由としよう。
2杯目のミルクティーを飲んだあたりでそろそろお祭りを見に行こうと言うことになり、TCVのグランドへ向かった。曲がりくねった校内の通路を抜けてグランドに出てみると、グランドにはステージが作られており、ダラムサラの地元ローカルテレビ局がカメラを構えていた。おそらくケーブルテレビだろう。マクロードのステートバンクの向かい側にある2階の食堂で何度か見た覚えがある。ちなみにその食堂で一番放映されていたのはなんと中国の貴州電視台のメロドラマであった。どうやって受信していたかは謎である。
隅のほうに並んでいるテントでは各種団体の展示がされており、9-10-3のコーナーもあった。砂曼荼羅も飾られている。だが、一番目立っていたのはサッカーのチベットナショナルチームの展示であった。先ごろ行われたグリーンランドとの試合の写真や、選手のユニホームなどが展示されていて、TCVの生徒たちが熱心に見入っていた。
http://www.tibethouse.jp/news_release/2001/Football_May01_2001.html
今時のチベット人の少年たちはやはりベッカムやロナウドにあこがれるのだろうか?閉鎖されていた頃のチベットであれば高僧になりたいというのが多かったように思えるが、いまや現代である。メディアが容赦なく純朴なチベット人に影響を与えているのだ。だからと言ってそれが悪いわけではない。時は移ろい行くもの。チベットも現代社会の影響を受けて現代化しているのである。唯一の例外はブータンくらいだろうか?そういえば「ザ・カップ~夢のアンテナ」という映画があったな~~~と今では思う。
階段状の観覧席に座って様子を窺っていると、なんだか只ならぬ気配を感じた。グラウンドの門の辺りに自動小銃を持ったインド兵が何人も立ち並んでおり、チベット人はというと白いカタを持って誰かを出迎える様子である。そしてグラウンドにTCVの最高責任者であるダライラマ14世の妹、ジェツン・ペマや以前の東京のダライラマ事務所の代表だったカルマ・ゲレク・ユトク氏の姿が見えるようになると、一台の車が門から入ってきた。もしやダライラマか???と私の心の中はざわめいたが下り立ったのはカルマパ17世、ウゲン・ティンレー・ドルジェだった。それでもVIPには違いない。私はがむしゃらにカメラのシャッターを切った。これはスクープ写真かもしれない。そう思うと10枚くらいカルマパの写真を撮りまくった。
カルマパとはいったい何者だ?と思う方も多いと思う。少し説明しよう。
カルマパはカルマ・カギュー黒帽派のトップである。また、ダライラマからいくつにも分裂しているカギュ派のトップとしても認定されている。ゲルグ派のダライラマ、パンチェンラマに次ぐチベット仏教のナンバー3だ。だが、転生活仏制度を導入したのはカギュ派が最初である。ダライラマ、パンチェンラマはゲルグ派の勢力を高めるためにカギュ派の活仏制度を導入した結果存在していると言っていいだろう。
2000年1月8日より、カルマパ17世がインドに出国したとの一報が流れた。中国からインドに脱出したカルマパ17世は、チベット自治区からネパール国境までの険しい山道を、日本製の四輪駆動車で駆け抜けたという。メディアには「転世霊童」「活仏」「ヒマラヤ越え」「中国の宗教政策への打撃」などの文字が踊った。事件としては5年前にパンチェンラマが失踪(拉致?) したことのほうが大きいが、そのころはまだメディアはチベットに注目していなかったのだろう。そのため、今回のカルマパ報道の方が質量ともに先年のパンチェンラマ報道をしのぐものとなった。その理由としては、ここ数年間に封切られたハリウッド映画がチベット問題にかんする一般認識を高めたこと、今回は中国だけではなくインドが絡んでいるため中国・インド関係ウォッチャーなどの興味をひいたことなどがあげられよう。チベット仏教カギュ派の最高位であるカルマパ17世は中国当局が認定した活仏である。これは1959年3月のチベット民族蜂起のとき、ダライラマが亡命して以来、中国が活仏を承認した初のケースとされる。江沢民国家主席は、カルマパ17世と接見した時、「よく勉強し、健康で成長し、国と宗教を愛するように」と言い聞かせた。カルマパ17世の出国は、中国のチベット政策と宗教政策の挫折を意味し、共産党左派を刺激することになるだろう。その本人がいま、大勢の取り巻きに囲まれながら最上段のVIP席に案内されようとしている。
お祭り自体はそれほど面白いものではなかった。チベット各地の出身者別の団体なのだろう、それぞれ違う衣装を着て歌や踊りを披露していた。トルコ石や珊瑚などで飾り立てたお婆ちゃんの姿が印象的であった。それぞれが出番を待っている。カルマパが見ているのである。ダライラマほどではないが彼女たちの演技に対する姿勢は真剣であった。
昼食をどこで食べようかと思案して、食堂を覗いてみたが、このイベントのためにやってきたチベット人や外国人旅行者であふれかえっており、どうも食べられそうにもなかった。また、TCV全体にも屋台が溢れていたが、どうも食欲をそそる代物は置いてない。チベットの揚げたカプセというオカキばっかりだ。ちゃんとした食事をしたかった私はダル湖まで引き返そうかと思っていた矢先、そこで頭を過ぎったのはダワ・ラの家だ。
ダワ・ラの家はツェリン・ドルジェのアパートの近くでテラスに大きく「JAPAN HOME」と描かれている。どうやら日本のある仏教団体が寄付して立てられたものらしい。ドアをノックするとダワ・ラが顔を出してにっこり微笑んだ。やっぱり神様はいるものだ。リビングに通されるとBBCを見ながら世間話からはじめた。やはりなかなかダイレクトに「昼飯食わしてくれ!」とは言いにくいものである。その日はダワ・ラの親戚がスイスからダラムサラに帰っていたところなので、ヨーロッパでのチベット人コミュニティーの話や、ドリームウェーバーでのサイトの作り方などを30分ほど話し合っていた。するとまもなく食事の用意ができたようで・・・
「どうぞ、食べていってください」
という雰囲気になってきた。もしかしたらツェリン・ドルジェがダワ・ラに話しておいてくれたのかも知れない。
「明後日、日本に帰ります」
としみじみと言うと、袋の中に入っていた日本人タンカ絵師Yが描いたドルカル(ホワイト・ターラー)のポストカードを差し出した。ダワ・ラはそれを額にあて、おもむろにテレビの上に飾ってくれた。そして私にはダライラマのポスターをくれ、
「TCVの予算編成で忙しいから明後日の見送りはいけそうにない。残念だ」
と言ってくれた。
「その代わり、ツェリン・ドルジェを行かすから。また、ダラムサラに来る機会があれば私の持っているゲストハウスに泊めてあげるよ」
帰り際、記念に写真を!というとダワ・ラの息子さんがダワ・ラと私とのツーショットを撮ってくれた。あの日もらったダライラマのポスターは今でも私の部屋に貼ってある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?