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通過儀礼

2001年10月22日。この日は朝から腹の調子が悪かった。インドにやってきて53日間、私は一度も下痢をしなかった。これはインド旅行者(私は旅行者とはちょっとちがっていたが・・・)にとっては奇跡的なことだろう。たいていの旅行者はインドに来た初日から1週間の間に一度はこのインド下痢という通過儀礼を受けることになる。理由を挙げるといくつか思い浮かぶ点があるのだが、その一つは生水を一切口にしなかったことだろう。絶対にミネラルウォーターの水しか飲まなかった。シャワーの水でさえ口に入らないように心がけていたし、歯磨きも日本から持っていった歯磨き粉を使い、危なそうな気配がするとミネラルウォーターで口を濯いだものである。
もう一つはダラムサラが標高1800mの高地にあり、湿気が少ないうえに気温も涼しく、食料の腐敗を促進させる要因の少ない、インドの中にあっては比較的衛生的な町であるということだろう。水道水もヒマラヤから湧き出る自然の水を使用していた。インドと言えばヴァナラシを流れるガンジス河やデリーを流れるヤムナー河などで、人々が日々、その川で沐浴し、洗濯し、排泄し、ヒトを含めたさまざまな死体を流している光景を思い起こされるだろう。川の水は深緑ににごって泡があちこちに浮かんでいる。そのような非衛生的な河の中で、人々は沐浴しながら我が身を清めるかのように、その水を飲んでいて平気なのである。日本人ならすぐにA型肝炎にかかって病院行きになることだろう。インド人の胃腸は日本人とは比べ物にならないくらい強靭である。そんな衛生観念を持ったインドの他の町に比べればダラムサラは天国だった。しかもここはチベット人の町である。食堂に入るとスパイスの効いた辛いインド料理ではなく、胃腸に優しそうなチベット料理(たいてい薄味である)が供される。それが助かった。
ところが、昨日のパーティーから帰ってきたときにも感じたのだが、胃が圧迫されるような不快感があり、朝起きてみると酷い下痢に襲われた。しかも嘔吐も何度かあった。毎朝9-10-3の食堂に行って食べる朝食も口に出来ないどころか、食堂に下りていく元気もない。起きてからずっとベッドとトイレの往復だ。何回行ったことだろう。そのうちトイレットペーパーを使うのさえつらくなって来て、インド式に手動ウォシュレットを使おうかと真剣に悩んだものである。暑く乾燥した土地ではあの方式が快適だと思い知らされる。ただし左手は使えなくなってしまうが・・・
インドのトイレについて言えば、デリーやコルカタ(旧カルカッ)、ムンバイ(旧ボンベイ)などの大都市やジャイプール、アグラなどの観光地の外国人向けの高級ホテルなどでは西洋式にトイレットペーパーなどが完備されていて水洗なのだろうが、民家や安宿にはそんなものはない。私が滞在していた9-10-3の個室には1泊100~150ルピー払えるちょっとだけリッチな日本人の旅行者が泊まるので一応トイレは水洗で、雑貨屋でトイレットペーパーも売っているので困ることはなかったが、たびたび断水があるのでトイレ兼シャワー室には常時バケツ2杯の水を用意しておくことは欠かさなかった。トイレの話で言えば1998年にチベットに行ったときの衝撃の方がはるかに凄まじい。
インドで下痢をするのは、インドの水が日本人に合わないという説もあるが、どうやら違うらしい。細菌の進襲を受けているのであり、免疫が出来るまで繰り返し、繰り返されるものだという話である。つまり、急性腸炎だ。原因はいろいろあって、細菌に汚染された水や食材から感染すると言うこと。あるいはまた食器等や水道水で洗ったサラダなどからの感染の可能性も考えられる。とくに暑さに体力の衰え消耗しているときは細菌の感染が発症する可能性はかなり高い。
ちょうど昼ごろ、2週間何の連絡もなしに来なくなったツェリン・ドルジェとロプサン・ダワ・ラのことを話し合おうとしてNGOの高橋さんが訪ねてきた時、私は憔悴しきった表情で寝込んでいた。
「食べ物にあたったみたいです。たぶん、昨日食べたモモがいけなかったと思うんですが、何かいい方法ありませんか?」
と聞いてみると、下痢って言う英語を知っていますか?と聞いた上で、
「現地の病気は現地の薬が一番合うんですよ。薬屋に行って来たら?」
薬屋に行けるだけの元気があれば苦労はしない。もう、それどころの状態ではなかったのである。その上薬屋で自分の症状を正確に言い表せるほど私は英語力がない。
「ダイアリーア!!!ダイアリーア!!!(下痢!!!下痢!!!)」
と叫べばそれなりの薬を出してくれるのだろうが、仮に医者の処方箋を持って来いと言われれば困ったことになる。マクロードに病院なんてあったか?
記憶が正しければ診療所はあったと思うが、薬屋での説明に覚束ない英語力である。医師の診察でなんて説明すればいいんだ?下痢にもいろいろあるだろう?間違った処方でとんでもない薬を出されても一大事だ。こういうときにもうちょっと英語を勉強すべきだったなとしみじみ思ったものである。ちなみにインドでは正露丸は全く効かないという話は定説である。
とりあえず、その日は病院へも診療所へも薬屋へも行かずに9-10-3のベッドで断食して横になっていることに決めた。トイレに行っては下痢と嘔吐でくたくたになり、ちょっとでも食べたらまた症状が重くなると思ったのでミネラルウォーターだけ飲んであとは毛布をかぶって横になっていた。寒気はない。風邪の症状ではないことだけは分かった。単なる食中毒ならいいのだが、食中毒と言えばサルモネラ、ボツリヌス、コレラ、チフスなどという怖い名前が思い出されてくる。その他、近年話題になっている腸管出血性大腸菌性腸炎(O-157)なんてヤツもあるが、ここは私の幸運を信じよう。一度下痢になり治ってしまえば、あとは免疫がついて水道水でも飲めるようになるという人もいるが果たしてそれは正解か?
「多少の下痢くらいなっといたほうが、インドヘ行った勲章になるだろう」
確かにそうかも知れない。
そう言うことで朝から夕方まで寝込んでいた私であるが、夕方になると少しは動けるようになってきた。固形物は喉を通らないが、チャイなら飲めるだろうと思い、行きつけの店に行くことにした。
私がへとへとになってやっとのことでMOON LIGHT CAFEにやってきて空腹でチャイをちびちび飲んでいると、その目の前で自称シューズ・ドクターのRameshKumarが元気に私に話しかけてくるではないか。普段は仲良くシモネタ交じりの会話を楽しんでいるこの男であるが、この時ばかりは憎いと思った。
「へらへら笑っているんじゃない。こちらは緊急事態なんだ」
弱った身体に少しだが怒りがこみ上げてくるが、そこはノープロブレムの国である。
「今日は朝から下痢が酷いんだ」
「ノープロブレム」
「おまけに嘔吐もしたし吐き気もある」
「ノープロブレム」
笑顔で「問題ないよ」といわれれば何故か不思議なもので、本当にたいしたことではないような気がしてきて、お互い最後は笑いあってその日は別れた。
一般的に言えるかどうかは定かでないが、私の場合、インドで下痢をすると断食してチャイを飲んで馬鹿話をやるといつの間にか直っていた。インドで風邪と下痢にやられた人がチャイは甘露だったと述べているが、本当にそうかもしれない。不思議な飲み物である。ただし、断食したおかげで体力はかなり低下して、翌日に響くことになるのだが・・・

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