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2. 工学部から芸大・美大受験へコース変更

高校2年生の時に建築家を目指した私は、当時、建築を学ぶためには工学部の建築学科に進まないといけないと思っていて、3年生のクラス決めの時に迷わず理系クラスに進んだのだが、高校3年生の理数科目、数学、物理、化学がさっぱりわからず、見事に崖から転げ落ちるように落ちこぼれて行った。
数学は、三角関数や指数関数・対数関数、微分・積分も数IIの範囲であればそれほど勉強しなくても出来たのだが、数IIIの内容となるとお手上げであった。まあ、全く勉強せずに音楽雑誌や文学書ばかり読んでいたので当たり前である。
物理は、力学までは分ったものの、電磁誘導や波動になると全滅。
化学なんて赤点どころか一桁の点数しか取れなかったので、テストが返却されるたびに化学の金井先生(勉強はともかく、喧嘩の仕方は勉強になった)から「郷へ帰れ」と言われたものである。
このように、理系科目が散々な結果だったので、大学進学も気弱になり、寮教諭で学校では宗教を教えられていた海老原先生との面談の折、なぜ大学へ行かなければならないのかと愚痴もこぼしていたが、もう一人の寮教諭の深水先生と面談したとき、建築を学ぶなら、工学部にこだわらなくても芸大・美大でも学べると教えてもらい、学校の近所に住んでいる画家の先生を紹介していただいて、芸大・美大受験のための実技トレーニングを始めることになった。その先生が宮西詔路先生である。息子さんが1学年上の先輩で、北海道大学医学部目指して浪人中とのことであった。1998年の同窓会名簿を見ると、その先輩は、勤務先が札幌医科大学となっていて、志望校を変えたのか、北海道大学医学部を卒業後、札幌医科大学の勤務医になったのかもしれない。
はじめのうちは、先生の自宅のアトリエでデッサンのトレーニングをしていたのだが、付きっきりで指導ができないという理由で、函館市深堀町の宮西絵画教室と北海道新聞函館文化センター五稜郭教室の絵画講座に通って、鉛筆デッサン、クロッキー、水彩画のトレーニングを受けることになった。
芸大・美大受験を決めたものの、美術に関しては全く知識がなくて、鉛筆の削り方から練り消しの使い方から教えられることになった。また、クロッキーでは、モデルさんがヌードになって、生まれて初めて母親以外の女性の裸を見ることになる。さすがプロのモデルさんだけに、脱ぎっぷりは潔かった。
いまでこそ、芸大・美大受験対策の情報はネットで数多く知ることができるが、当時は何の情報もなく、ただ単純に、どうせ行くなら最高峰を目指そうということで、志望校は無謀にも東京藝術大学美術学部建築科にした。振り返ってみれば、高校3年生から東京藝術大学受験対策の実技トレーニングを始めることは、まず、20代での合格は諦めた方が良い世界である。恐れ知らずというか、無知というか、バカだった。
東京藝術大学美術学部建築科の入試には、共通一次、後のセンター試験のあとの本試験の1次試験で立体構成があるので、いくらデッサンや水彩画のトレーニングをしたところで、1次試験に合格しないことには話にならない。ということで、宮西先生のトレーニングを行ける傍ら、立体は函館市内で建築設計事務所をされている所長の指導を受けることになった。とはいうものの、試験でどういう課題が出されるかさっぱりわからない。全くの手探りの状態で、ただ何となく立体を作って見てもらうしかなかった。東京の芸大・美大受験予備校であれば、東京藝術大学美術学部建築科の立体構成の過去問題など数多く研究されていて、適切な対策もできただろうが、ここは函館である。何もない。
ともかく、高校3年生という、芸大・美大を目指すなら遅すぎるスタートだったので、夏休みも早々に切り上げて、とは言いものの、寮にはまだ帰れなかったので、3年生の学園祭で一緒にバンドをやっていた友人のシコ中の下宿にしばらく厄介になることにして、函館市深堀町の宮西絵画教室と北海道新聞函館文化センター五稜郭教室の絵画講座に通った。
クロッキーは何度もトレーニングしたおかげで、褒められる作品も描けたのだが、問題は水彩画であった。どうも私の絵が濁っていると言われるのである。ちなみに、水彩画の絵の具は「透明水彩」と「不透明水彩」に分けられ、私が使っていて、受験の時も用いられるのは「透明水彩」である。私の絵の濁りは、今から考えると、ただ単純に筆洗器の水をこまめに替えていなかったことが原因なのだが、宮西先生は、私の精神的なところに問題があるのではないかと考えていたようで、教室が終わったある時、ラーメン屋に誘われて、寮の食堂で昼食は食べたと言っているのに、ラーメンでも食えと言って、その折、「何か悩みでもあるのか?」と聞かれたことがあった。私も、自分の絵が綺麗じゃないとはわかっていても、基礎中の基礎の問題だとは気が付かなかったので、頭を抱えた。まあ、それだけ美術に関してド素人だったのである。そのくせ志望校は東京藝術大学。無知とは恐ろしいものである。
寮から教室の行き帰りは、宮西先生から自転車をもらって、暑さ寒さをものともせず、たとえ吹雪で道路が凍結していても、自転車をブッ飛ばして通った。北海道新聞函館文化センター五稜郭教室は土曜日の午後からなので、寮の門限までには帰ってこられたのだが、深堀町の宮西絵画教室はいつも夕方から夜にかけての時間だったので、もちろん門限には間に合わなかったが、そこは受験対策ということで特例で許してもらえて、寮の同室者が自習している最中にフラッと帰ってくる毎日だった。帰ってきたら帰ってきたで、ヘッドフォンで音楽を聴きながら本を読んで、学科の勉強はほとんどしなかった。
こうした日々はどんどん過ぎてゆき、いよいよ受験本番を迎えることになる。


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