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21.閉鎖病棟

岸和田の久米田病院の私が入院した病棟は、今まで入院したアルコール病棟のように開放病棟ではなく、閉鎖病棟だった。だから出入り口が常時施錠され、病院職員に解錠を依頼しない限り、入院患者や面会者が自由に出入りできない構造になっている。
閉鎖病棟への入院患者は、原則として精神保健及び精神障害者福祉に関する法律に基づく措置入院や医療保護入院などにより、強制的な入院形態で入院するものとされているが、私の場合は任意入院だ。任意入院の患者は、原則として開放病棟に入室するものとされているが、形の上では医療保護入院でなければ閉鎖病棟への入院ができない。そのために精神保健指定医の資格を持つ私の主治医がそのための書類を作成し、私の両親がその書類を裁判所へ提出したそうである。私はそれがどんな書類だったか未だに分からないが、おそらく、「閉鎖病棟入院同意書」だったと思う。
ここはミシェル・フーコーが『狂気の歴史』で詳述した、十七世紀にヨーロッパ中で大々的に開始される監禁の実践の後、十八世紀の末に狂気が精神の病として確立され、精神医学および精神病院が誕生するに至るという一連のプロセスの正に現場だった。
岸和田の久米田病院の閉鎖病棟の入院患者の外出は単独では認められない。後に大部屋へ移され、病棟内での移動の自由が与えられると、週に一回だけ買い物のために売店へ行くことができる。その時は、必ず10数名のグループで行動し、監視役の看護師が2,3名張り付く。しかし、多くの閉鎖病棟には一般的に「保護室」と呼ばれる個室が存在し、症状の重い者を、あるいは、症状の重い者から他の患者を保護するために収容するための部屋がある。入院当初の2,3日はこの保護室から一歩も外に出られなかった。タバコも毎食後と寝る前の一服だけである。このタバコの制限は正直辛かった。
この保護室で過していた時、夜、女の子の叫び声が聞こえてきた。何だろうと様子を窺おうとしても保護室なので何も見えない。ただ、看護師たちの足音や声だけで何があったのか知るだけである。病棟は男女に分かれていたが、保護室だけは兼用していた。だからすぐそばで女の子の声が聞こえたのである。しかし、その叫び声の原因は未だに分からない。
入院生活も3日目くらいになると、徐々に保護室から食堂兼ホールに出られる時間が増えていった。最初は午後14時50分から午後17時半まで。次は午前10時から17時半まで。次は午前10時から20時半まで。保護室ではなく、食堂で食事する機会もだんだん増えていき、状態がよかったので大部屋に移された。ここまで来れば後は膨大な暇な時間との闘いだけになる。患者たちの顔触れも次第に分かってきた。
精神病院への長期入院(3か月前後なので精神病院の入院としたら短いほうかもしれないが・・・)には慣れていたので、入院の日に自宅から本を大量に本を大量に持ってくるべきだったが、この時はそれを忘れていた。
岸和田の久米田病院は依存症者の病棟ではあったが、意味のないARP(アルコールリハビリテーションプログラム)がなくてラッキーだった。特に東京の精神病院に入院していた頃の久里浜式の作業療法やミーティングがないだけでもありがたい。その代わり暇な時間との闘いになった。最初はテレビを見るのが仕事になったが、そのうち入院患者の観察が面白くなってきて、飽きずにあれこれ観察していた。
入院患者の大半は覚醒剤をやって警察に捕まり、ここへ連れてこられたか、退院後に拘置所に入るヤクザが多かった。喫煙室での日常会話は組の話である。食道のテーブルを囲って麻雀を毎日真剣勝負でやっている患者もいる。たぶん、何か賭けていたのだろう。大阪でも東京でもアルコール専門病棟ではありえない光景だった。一見、自由に見えるが、外に通じる扉は頑丈に施錠されている。外に行けるのは金曜日の午後から売店に買い物に行くときだけである。その時も、患者に現金を持たせない。清算は全て病院の預かり金の範囲で行われる。現金が絡むと何かとトラブルがあるのだろう。
久しぶりの入院生活にも慣れてきたころ、両親が面会に来て差し入れに頼んでおいた本を置いていってくれた。これで読書もできる。また、5回目の入院の時に世話になった元彼女も中島らもの未読の本を差し入れてくれた。しかし、差し入れてくれた物はすべて看護師によって何か入っていないか入念にチェックされる。ちなみにアルコール病棟にいた頃はペットボトル入りの飲み物は厳禁だった。アルコールが入っているかどうか分からないからだ。ここでは全てが疑われる。本のページの中もしっかり調べられた。入れようと思えばLSDを含ませたペーパーだって持ち込めるのだから・・・
東京に住んでいる女友達も用事で神戸の実家に帰っていたところなので、面会に来てくれると言ってくれたのだが、それを主治医に話したら渋い顔をされた。何が起こるか分からない薬物専門病棟である。外部とは極力遮断したかったのだろう。面会は入院当初に登録した親族か友人でなければならない。
この5回目の入院は5年前のことだった。それ以来、精神病院には入院していない。以前は毎年入院していたのだからそれだけでも回復に向けて前進したのだと思うようにしている。そうでも思わなければ生きていけない。依存症者は死ぬまで依存症と言う病気を背負い、時にはそれと闘わなければならないのだ。世の中勝ったり負けたりである。時には依存症に負けて入院するかも知れない。ただ、今、言えることはこの入院を最後に依存症には勝っている。このまま勝ち続けたら何か良いことがありそうだ。あの三笠宮寛仁親王も2010年1月8日、5度目の入院をしている。入院してからも入院先の病院から公務に出席しており、いわゆる「ふてくされて出てこないのか」発言など行動力と鋭い舌鋒の健在ぶりを見せているらしい。何か縁を感じさせる。
退院の日は夏真っ盛りの日だった。私と両親と元彼女の4人で食べたコリアタウンの冷麺は美味かった。

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