【夢と現の狭間に】 「夢は現か幻か。」

 一人静かに待つ、この時間が好きだ。

 とまあ、ここでこんなことを言っても、きっと誰も理解してくれないだろうと思う。
 大抵の人は緊張してるだろうし、何かしていないと落ち着かない、という方が大多数だろう。集中できる自分のルーティンを繰り返していたり、渡されたホンを何度も読み直しているかもしれない。共演者やライバルと四方山話を、なんていうのも見たことがある。
 でも、私は隅っこでじっとしている。話しかけられたりすれば最低限の受け応えくらいはする。でも、基本的に静かにじっとしている。正直、必要以上に多くの人と関わるのは得意じゃないし、できれば避けていたい。こんな業界にいるけれど、否、いるからこそ、私は一人の時間が好きだし基本的に一人でいたかった。
 今回のように、待機室が個別で割り振られているととても有難いし、ほっとする。舞台に立つ直前ほど、一人でいたいと思う時間はない。
 控え室で静かに目を閉じて、暗がりの向こう側に想いを馳せる。ここまで来たらもう何をしても仕方ない。これから訪れるであろう、その場所のことを考えるのみだ。
 まだ探り探りで、正体ははっきりとは掴めていない。けれど、朧げながら『何か』が触れてくる、触れられるような気がしている。回数を重ねるたびに、少しずつ、はっきりと——
「西村さん、お願いします」
 数回の軽いノックのあと、扉越しにスタッフが声を掛けてきた。どうやら、私の順番が回ってきたらしい。
「はい」
 短く応えて、立ち上がる。
 目を開けば、なんのことはない控え室の風景。でも、『何か』の気配は確かにそこに残っていて、その冷たさに安堵する。
「今日も、よろしくね」
 誰にともなく声を掛けて、扉を開いた。一歩下がって待っていたスタッフが「こちらです」と先に立って歩き出す。その後ろをついて歩きながら、確かに背中に『何か』が在るのを感じていた。

 今回の話が回ってきたのが、今から二週間前のことだ。
 その日は何事もなければ素直に帰って来れたはずだったのに、事務所ではちょっとしたトラブルで出るのが遅れ、帰りの電車は人身事故で途中で運休、遠回りのルートは当然大混雑、極め付けにその日発売だったはずの楽しみにしていた本は、大人の事情で延期ときた。
 ついてなさすぎる。普段ならありえないほど運が悪すぎる日をどうにかやりすごし、くたくたになって帰り着いたらもうそのままベッドに倒れ込んだ。
 と、これでそのまま寝てしまえたらそれで良かったのかもしれない。きっと、それらは大きな前振りだったんだろうな、と、今なら思える。疲れすぎて言葉にもならない唸り声を出しながらベッドでごろごろしていたら、電話が鳴って現実に引き戻された。
 正直出たくない。でも、仕事の電話かもしれない。どうしようか迷っているうちに、留守電に切り替わった。と、またすぐに鳴り始める。
 ああもう、どうでもいいや。なるようになれ。少しだけパサついた気持ちで、画面も確認せず電話を取った。
「もしもし」
「あ、理美。ごめんなさい、仕事後に」
「マネージャー、お疲れ様です」
 彼女の声に、冷静さが戻ってくる。
「ごめんね、寝てた?」
 そんなにひどい声をしてたんだろうか。無意識に出たオフモードの気遣わしげな声に、さっき(と言っても既にもう数時間前だが)出てきた事務所の惨状を思い出して、思わず苦笑いが漏れた。
「いえ、少しぼーっとしてただけです。何かありました?」
「ごめんね、一つ伝え忘れたことがあって」
 なんだろう、と思いながら続きを促す。
「以前話してた、湯ノ森さんの件です」
「ああ、あのオーディションの」
「そうそう。おめでとう、あれ、無事通りました」
「え」
 瞬時、耳を疑った。仕事モードに戻った彼女の冷静な声が、時間を掛けて浸透してくる。無事に通った、ということは。
「夕方には電話が来てたんだけど、あの状況でね。ごめんなさい、帰りに伝えられなかった」
「いえ、それはいいんですが。本当なんです?」
「こんなことでぬか喜びさせてもしょうがないでしょ」
「それはそうですが」
 まさか、私が通るなんて。ダメ元で部長に直談判して、相手とも偶然とはいえ直接話ができて。まさか受けてもらえるなんて。
「つきましては、準備を。オーディションは二週間後です」
「は?」
 たった二週間? 思わず低い声が出た。内容にもよるけれど、いくらなんでも短すぎやしないか。ホンの内容を覚えるのには充分すぎるが、その他を考えると……
「西村さんなら十分でしょう、とは湯ノ森さんからのお言葉らしいですが」
 言葉に詰まる。
「大丈夫、いつも通りでいけば、何も問題ありませんよ」
 彼女の言葉に冷静になる。そうだ、せっかく取れるチャンスが来たのだ。
「ホンは明日お渡しします。詳細についてもその時に。とりあえず、今はこれだけで」
 電話を切ろうとする気配がしたので、ちょっと待って、と引き留めた。
「どうしました?」
「ううん。仕事、片付いたのかなって」
 オーディションの件は気になるけれど、それは彼女の言う通り明日聞けばいい。
「あはは、まだ目の前に山が残ってるわよ」
 私の口調が緩んだのを察したのか、彼女もオフモードの声で答えてくれる。
「そんなに雑務があったなんて」
「いやいや、今回はタイミングが悪かっただけよ」
 とてもそうは思えない。いつも私や他の数人のことをこなしながら、さらに諸々の仕事を片端から片付けているのをいつも見ていた。
「言ってくれれば、少しだけでも手伝ったのに」
「あはは、今回はほんと気持ちだけ貰っておくわ。さすがにこの量は、手伝ってもらったらどんだけかかるかわかんないし」
 いつも助けてくれてるからね、と軽い笑い声。別に気にしなくていいのに。
 ほんとありがとね、という彼女の声に気が抜けてベッドに倒れ込むと、そのまま少し雑談した。彼女の仕事に差し障りがない程度に切り上げ、電話を切る。
 一息ついて、天井を見るともなしに見つめる。いまさらのように、『何か』と目が合った。
「そういえば、今日はずっと一緒だったね」
 珍しい。いつもは暗がりの中にしか出てこないのに。
「今回もまた、君が一緒なのかな」
 答えはない。
「ああ、もしかして君のせいか」
 あるわけはない。
「まったく、ほんとに大変な一日だったよ」
 自分の言葉に思わず苦笑い。本当に、大変な一日だった。
 しかし、本当に大変なのはこれからなのだということを、翌日に知るのだった。

 スタッフに連れられて舞台袖に着くと、用意されていた椅子に腰掛ける。少しお待ちください、と言ってスタッフが離れると、舞台の方へ目線を向けた。次の用意中なのか少し騒めきが聞こえるが、照明の落とされた真っ暗な舞台上はただただ静かだった。
 今日は下手側か、なんてどうでもいいことを考える。上手でも下手でも、動き方は変わらない。
 私は昔から緊張とは無縁だった。何か大きなことがあったとしても、ずいぶんと淡白な反応だった、とは我が家族の言である。諸々あった試験の時だって大して何もせず、いつも通りにしていたらいつのまにか通っていた。焦ったり、上せたり。そういったことは本当になかった。
 今回もまた然り。どんな内容だって、私がやることは変わらない。
「——、か」
 ホンのタイトルを口の中で転がしてみる。今回の台本は、まさにその通り。タイトル有り、登場人物は一人、あとは。
「これで、良かったのかな」
 これから自分が形にするであろう、舞台の上に想像を巡らせる。
 口にしておいて今更、正解はない。あるわけがない。私が居るのはそういう場所だ。今回のホンは、特にその色が強い。
 ふと、騒めきが消えた。背中に、冷たいものが寄り添ってくる。冷たいけれど、不安はない。それは。
「お待たせしました、お願いします」
 声が掛かると同時に、特有の低いノイズ音が聞こえ始めた。
「はい」
 ゆっくりと目を開き、立ち上がる。さあ、始めよう。さっきまで描いていた景色は、しっかりとそこに残っていた。まだ真っ暗な舞台に向けて、歩き始める。
「それじゃ、行きますか」
 まっさらな世界にたった一つだけの道標、それを元にして世界を生み出す。たとえ何もないまっさらな世界であろうとも、先立つ言葉さえあれば、それを描くことなど造作もない。それはできるはずだし、できなくてはならない。
「だって私は、役者だもの」
 見える世界があって、そこに立ちたい場所がある。見たい世界があって、触れたいものがあって、出会いたい人々がいる。そこに辿り着く道筋が、これならば。
「立たない理由が、ないのよね」
 夢は現か幻か、それは私だけが知っている。

「——ようこそ、夢と現の狭間へ」

 今宵の案内人は、私が勤めましょう。

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