【夢と現の狭間に】 「雨は海に至りて。」

 窓から眺める風景は、灰一色に沈んでいた。梅雨にはまだ早いだろうに、空がぐずり始めてからそろそろ一週間が経とうとしている。そのせいで、放課後だというのに、外は静かなものだった。ふだん校庭を賑わせている声の群れは、以来ずっと体育館や本校舎に集まっていた。
 ここはいつでも、いつ来ても静かな場所である。選択教科と専攻科の特別教室が中心の校舎である上に、この学校には自習室が別で用意されているので、試験期間でさえ訪れる人が少ない。ましてや平時のこんな時期に来る物好きは、それこそ片手で数えて足りてしまう。
 加えて、この雨である。雨宿りよろしく待っていて止むならばいざ知らず、ここ数日は弱まることはあっても決して止むことはなかった。詰まるところ、弱まったタイミングでさっさと帰るが上策であり、雨宿りなど意味がない。
 故に、今日も私一人だけであった。司書の先生は急用とかで先に帰ってしまい、今日の当番は都合により私だけ。さらに、こんな天気ではここを訪れる人もいない。当然、私以外誰もいない故に、仕事もない。いや、あるといえばあるんだけど、急ぎですることもない。うむ。
 視線を窓から手元の本に戻すと、思考が浮いた隙に手が離れ、ページがめくれてしまっていた。栞紐を挟んでいなかったので、どこまで読んだっけ、と記憶を繰りながら続きを探していく。
「ああ、ここだ」
 思わず声に出てしまい、慌てて周りを見回す。当然、誰もいない。そう、その必要は、ないのだ。知らずため息をついて、改めて続きを読んでいく。海の底へと、沈んでいく。

     ここは、海に似ている。
     ——はいつもそういう錯覚を感じる。
     なぜか、この部屋に入ると、
     海原に出た船に乗っているような気分になるのだ。

 しばらく読み進めた先で、思わず手が止まった。ここを海の底とイメージしたのはなんとなくだったのに、まさかそれが手元から突きつけられるとは。それに。
「名前、私と似てるのよね」
 最初は気にしていなかったけれど、読み進めていくうちに引っ掛かりを覚える。それもそのはず、私の名前の半分が、彼女の名前だからだ。
「まさか呼ばれ方まで一緒なんて。ほんと、どうしよう」
 別にどうしようもない。それはわかっているが、つい口をついてしまう。独り言が多いのはもう、癖としか言いようがない。

「べつに、どうしようもないんじゃないですか」
 直後、いきなり聞こえた声にぎょっとして振り向くと、不貞腐れた顔をした後輩が、頬杖をついて私をみていた。いったいどこから。というかいつの間に。
「そんな幽霊でも見たような顔をしないでください。ちゃんと正面から入ってきましたよ。かれこれ40分くらい前ですが」
 何も言ってないのに、私の疑問に全て素直に答えてくれた。というか。
「……別になにも言ってないけど」
「その顔が雄弁に物語ってますよ。先輩、ババ抜きとか弱いタイプですもんね」
 悔しいがその通りである。こと、この後輩には勝てたためしがない。
「そんなことより、そろそろ下校時刻ですよ。帰らないんですか?」
 言われて時計を見れば、ここを閉める時間をとうに過ぎていた。すっかり読み耽ってしまったらしい。
「そうだね、帰るとしようか。片付け手伝ってくれる?」
「ええ、そんなことだろうと思いました。早く済ませましょう」
 片付けといっても、誰が来たわけでもないので、カウンター周りを整頓するだけで終わる。どのみち明日も私一人だろうし、他の仕事はまた明日。そう、明日でいい。
 栞紐を今度は忘れずに挟んで本を閉じる。あまり時間がないですよ、と後輩に急かされるままに片付けを終わらせ、図書室を後にした。

「……で、今日は何を読んでたんですか」
「んー、図書室で自分の役割を考えている少女の話、かな」
 帰り道、いつもどおりの傘の下で、いつもの話になった。この後輩は自分から進んで本を読むタイプじゃないのだが、誰かに内容を聞くのは好きらしい。知り合ってからというものの、よく私が読んだ本のあらすじや感想をせがまれていた。
「なんですかそれ。まるで今の先輩じゃないですか」
「なんだと。私のことをなんだと思ってるのよ」
「え、言葉通りですが」
 言葉はつれないものの、横顔を盗み見れば、なぜか嬉しそうに笑っている。空模様とは裏腹の晴れた傘の下に、後輩の声が響いた。
「先輩は先輩、ですよ。それ以上にもそれ以下にもなれませんし、それでいいと思ってます」
「……それだけ聞くと、私がつまらない人間のように聞こえるけど」
「あれ、それでいいって言ってるのに」
「……」
 私に対する歯に衣着せぬ物言いは今更だが、時々ぐさりと来ることを言ってくれる。
「まあ、つまらないは冗談にしても」
 そうは聞こえないんだよなあ。そこそこ長いつきあいのはずなんだけど、いまだにこの子の中での私の扱いが、どんなものなのかよくわからない。
「自分の役割、って、結局最後までわからないと思うんですよ。それがわかる時って、きっと死ぬまで……ううん、死んでもないんじゃないかなあ」
 そう言って私の手を取った。霧雨に冷やされて冷たい指先。でも、そっと握られると、なぜか温かい。
「だって、私たちは役者じゃないんだから」
 はっとして、彼女を見る。青空を見上げていた横顔が、こんな空の下、晴れやかに見えた。
「そんなことよりも。もっと細かいあらすじ教えてください」
 私のことはそんなことなのか。しかしさっきとは打って変わって甘えるような声を出すと、私の手をぎゅっと握り、そのまま歩き出す。思わず、やれやれ、と苦笑い気味のため息が出た。結局、今日もまたいつも通りなのか。でも、こんな時間が心地よいのは、やっぱり間違いない。

 雨は変わらず、止む気配を見せない。けれどなぜか、明日は晴れるんだろうな、とそんな気がした。


# 本文中の引用
「図書室の海」恩田 陸

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