【夢と現の狭間に】 「春の日の病院にて。」

 入院生活も長くなると、色々な人が知り合いになる。入院患者だけではなく、外から通ってくる患者さんとも。
「あら、夏海ちゃん、こんにちは」
「おばあちゃん、今日も元気そうね」
 たとえば、このおばあちゃん。リウマチがひどく、酷い時には歩くことすら困難で、ここには長いこと通い続けていた。けれど、最近は調子が良くなったのか、妹さんと談笑しながら中庭を歩く姿をよく目にしていたし、同じく病院の中庭で散歩中の私を見かけると、よく笑顔で話しかけてくれていた。なのに。
「あれ、おばあちゃん、今日は一人なの? 妹さんは?」
「ああ、あの子ね」
 何気なく口にしてから、しまった、と思った。見る間に、おばあちゃんの表情が変わったからだ。
「……あの子はね。先日、交通事故で」
 そう言うと、おばあちゃんは目を伏せ、そのまま私の隣に座り込んでしまった。「ごめんなさい、私……」
「ううん、いいのよ。私もあの子も、いつお迎えが来てもおかしくない年だったからね。たまたま、あの子が先に旅立っただけ。夏海ちゃん、気を使わせてごめんねぇ」
 ごめんね、とは言ってくれたものの、その言葉には力がなかった。
「あの子が先に逝ったのは、これはもう仕方がないけどね。今年ももうじき桜が咲くじゃない。そしたら、今年こそは一緒に見に行こう、って約束しててねぇ……」
 おばあちゃんは病気のせいで、ずっと自由に動けなかった。どこへ行きたい。なにをしたい。どんなにそう思っても体が言う事をきかなくて、けれど妹さんもそれは承知で、ずっと二人で助け合って生きてきたんだ。
「今まで散々苦労をかけてたんだよ。私が自由に動けないせいであの子に頼ってばかり。あの子は私のためにずっと我慢してきたはずなんだ。なのに、姉さんのためならかまわない、といつも笑顔で言ってくれてね」
 おばあちゃんの声が、詰まる。私は、言葉を探そうとしても見つからず、俯いてしまう。
「でも今年に入ってようやく、体が言う事をきくようになってね。あの子もすごい喜んでくれて、私はなんとかお礼をしたくて。それで今年こそは一緒にお花見に行こう、って約束をしたんだよ。それなのに……」
 言葉が途切れ、音が失われる。おばあちゃんの方を見ると、しかし涙が溢れているわけではなかった。柔らかく、静かに微笑んでいる。けれど、だからこそ、言いようもない悲しみが伝わってきた。
「あとどれくらい生きられるのかはわからないけれどさ。これから桜を見るたびに、あの子との約束を……」
 そうだ。おばあちゃんはこれからも生きなければいけない。
 時間は無情だ。何が起ころうと関係なく、平等に流れ過ぎていく。季節も、ずっと回り続けていく。
 これから先、春が来る度に。花が咲くたびに。おばあちゃんは桜を見て、思い出さないといけない。
 大切な人を喪った記憶を。永劫叶えられない、約束のことを。
「おばあちゃん」
 そんなのは、耐えられない。いくらなんでも、辛すぎるから。
「知ってます? 桜の古い言い伝えなんですけど、ちょっとした逸話があるんです」
 そう言った私を、おばあちゃんは不思議そうに見つめてきた。
「私も名前までは忘れちゃいましたけど、平安時代ごろの古い書物のなかにこんな記述があるんです」
 私はしっかりとその瞳を見つめかえす。どうか、伝わって。
「桜には、顕世と幽世をつなぐ力があるそうです。ただ、行き来の道にはなれないけれど、顕世の声を届けることが出来るんだそうです。春の短い期間に咲き、すぐ散ってしまうのもそこに理由があって、それは二つの世界がつながりすぎないように、桜自身が調整をしているからなんですよ」
 一言一言、確実に言葉に乗せていく。
 不思議そうな表情は変わらないけれど、おばあちゃんは黙って聞いてくれていた。その様子に力をもらって、私は言葉を続けた。
「生きている人に死者の姿が見えず幽世に行くことができないように、幽世の声は現世に届くことはできない。けれど、現世の人の声だけならば、幽世の者たちは桜を通じて聞くことが出来る。死者が世界を行き来できるのは盆に限られているけれど、声を聞くことだけなら許されている」
 伝わるだろうか。届いてくれるだろうか。どうか。
「だから、桜を見たら、亡き人を思い出して嘆くのではなくて、温かい思い出と一緒に声をかけてあげてください。その声はきっと、妹さんにも届いています」
 大切な人への想いは、とても温かい。それが届いてほしい。伝わってほしい。
「もうこちらで会う事はできなくても。二人の温かい思い出は、離れていてもずっと共有できるものですから」
 そう言って、私はおばあちゃんの手を優しく握った。いつか訪れる日の誰かに、言い聞かせるかのように。

 ありがとう、と泣くおばあちゃんとしばらく一緒にいたけれど、私を探しにきた看護師さんに呼ばれて、病室に戻ることになった。
 ただ、去り際に。
「……ありがとうね、夏海ちゃん」
 涙で濡れた声のまま微笑んだおばあちゃんの表情は、とても綺麗だった。
 私たちの間に、ふっと、風が通る。何の悪戯か、どこからか桜の淡い香りがしたような気がした。
 気のせいかもしれない。でも、春はきっと、もうすぐそこなのだろう。
 私もそれを見ることが、できればいいな。
 そんな、出来もしない願いをしてしまうくらいには、綺麗だった。

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