【夢と現の狭間に】 「乞巧の宵はいつかの夢を。」

 もうじき日付も変わろうかという時間、鞄の中に入れっぱなしだったスマホがやたらにその存在を主張する。いつもなら何の気にもせずそのまま放置するところだが、今日に限ってなぜか気になった。
 取り出して画面を見れば、その予感に違わず彼女の名前が踊っている。知らずため息をついて通話を取れば、耳に当てるのを待たず、色々吹き飛ばすほどの声が響いた。
「ねえねえ真由花、外見て! 星空が綺麗だよ!」
 まったく。底抜けに明るい声で、いきなり何を言い出すかと思えば。
 麻莉が唐突なのは、今に始まったことではない。が、それに慣れているとしても、毎度許容できるかどうかはまた別の話であるわけで。
「ああそう、よかったわね。それじゃ」
「あー!? 待ってまって!」
 無意識に出たため息が伝わったわけでもあるまいに、慌てる声が私を引き留める。まったく、いつまで経っても変わらないんだから。
「開口一番なんなのよ」
「だって、天の川がぁ……」
 そんなこと言われても。
「あのね、こっちで見える訳ないでしょ。そっちとは環境違うし、大体今日はずっと雨だったよ」
「でもぉ……」
 一緒に見たかったのに、と拗ねた声。正直、私に甘えてくれてるようで可愛いからもっと聴きたいが、今はそれよりも。
「それより。そっちはどうなの?」
 麻莉の気を逸らそうと、水を向けてみた。大学の長期休みを使って実家に戻っている彼女は、昼間は家業に追われているはず。ただ単に、私と星を一緒に見たいが為だけに、こんな時間に電話してくる訳が……いやまあ、この子ならあり得るかも。
「あ、そうそう! えーっとね」
 さっきまでの拗ねた声はどこへやら。心無しかいつもよりトーンの跳ね上がった声で、いつも通りのとりとめない話が始まる。私の、大好きな時間が。

 麻莉との会話は、いつも方向性が定まらなかった。だから、よく喋る彼女の話を私が静かに聴いている、というパターンが、出会った時からもうずっと出来上がっている。元より私が話し下手なので、楽しそうに話す麻莉を見ているだけで楽しかった。何よりも可愛らしくてずっと見ていられるし。
 たとえ決まった話題があったとしても、いつも気づけば脇道に逸れている。逸れてどこかで軌道修正するはずが、そこからさらに分かれていくのは日常茶飯事。いつまでたっても話は尽きず、学校が終わって別れて自宅に帰ってもなお話し足りずに結局長電話となり、高校の頃はよく親に怒られたものだ。
 あれからもう何年経つか。社会人になっても、その関係はずっと変わっていない。電話の頻度こそ減ったものの、一度話し始めれば、あっという間に高校時代に逆戻り——と、ふと気づけば、電話の向こうが静かになっていた。
「あれ、麻莉? どうしたの?」
「ん、えーっと、ね」
 なんだか歯切れが悪い。彼女にしては珍しいことだった。
「夜になると、ね。ふと、逢いたくなるんだ」
 しばらくの沈黙の後、ためらうように紡がれた言葉に驚いた。
「なんだか今日は、いつもよりもすごく寂しくて」
「……今日は、七夕だからね」
「うん、知ってるよ」
 あまりに意外すぎて、ええ、と声に出掛かったのを慌てて飲み込む。まさか彼女が旧暦を知っていたなんて。
「今、意外とか思ったでしょ」
「……さあ。なんのことかしら」
 うまく引っ込めたと思ったのに、そんなにわかりやすかっただろうか。少し拗ねた声に、思わず笑ってしまう。拗ねた声から膨れた彼女の顔が想像できて、声が抑えられなかった。
「もー、わたしだっていつまでも昔のままじゃないんだよ」
「はいはい、ソウデスネ」
 絶対信じてない! と、そばに居れば痛いほど腕を引っ張られそうな声に、笑いが止まらない。
 麻莉の膨れつつもしょぼくれた顔が目に浮かび、それでもなお可愛いな、なんて場違いな感想が思い浮かぶ。
 ひとしきり笑って、おそらくおたふくのように膨れている彼女を宥めるために、さっき話している時に思いついたことを言ってしまうことにした。
「次の休み、星でも見に行こうかと思うのよね」
「え?」
 彼女の声のトーンが一気に変わった。ほんと、わかりやすい子。
「偶々、ね。偶々、行き先は伊那の方を考えてるんだけど、」
「わー! うそ!? え、すごい嬉しい! ねえいつ? いつ来るの? というか今すぐ来て! 絶対迎え行くから早くきて! やったー!」
「ちょ、ちょっと落ち着きなさいよ」
 私が皆まで言うまでもなく、機関銃の勢いで彼女が捲し立てる。まるで人懐っこい大型犬だな、などと想像して苦笑いした。だとすれば今、彼女のしっぽは千切れんばかりに振れていることだろう。黙って行ってサプライズにするつもりだったけど、これだけ喜んでくれるならまあいいか。
「もちろんうちに泊まるんだよね? 心配しないで、おかあさ、じゃない女将にお願いして、格安で良い部屋押さえてもらうから! もちろん私も一緒でいいよね! というかタダでいいから一緒にうちで泊まって! そうしよう!」
 続く言葉の勢いは止まることを知らない。まったく、水を得た魚なんてものじゃない。台風の大波に喜び勇んで飛び込んでいくサーファーの如し。というか勝手に泊まることにされてるし。私の話聞こえてないなこれは。
 まあ、いいけどね。元よりそのつもりだったし。

 そのあとも、坂を転がるかの如く止まることなく話題が転がっていく。近況やら予定やらを色々と話した後、楽しみで寝れないよー、と浮かれ切った彼女を、仕事ちゃんとしないなら行かないからねと釘を刺してから電話を切った。
 そういえば、長電話自体が久しぶりだったな。スマホを離せば、腕と肩がこわばっていた。やれやれ、と解しながら伸びをして、なんの気無しに窓の外に目を向ければ、雨は小雨になっていた。

 ——そういえば、こんな伝承もあったっけ。
 七夕の夜、牽牛と織女が無事に逢えれば、その夜は雨になる、という。二人が近づき、天の川が押されることで、天の川の水が溢れて地上に降り注ぐ、ということらしい。そして二人が無事に出会えば天の川は元に戻り、今度は喜びの涙が地に優しく恵みをもたらすとか。
 ということは、天の上の二人は無事に年に一度の逢瀬を楽しめているということか。
 時計を見れば、七夕の夜は過ぎようとしていた。随分と長電話してたんだな、と思いつつも、これも昔からのこと。結局、私たちは変わらないのだ。
 縁側の物干しに、何かがキラリと光っている。朝にはなかったはずの蜘蛛の巣が、綺麗な円を描いて雨粒を纏っていた。
「乞巧奠の宵。細蟹が綺麗に巣を張りし時、願いは天に通ず、ね」
 どこで読んだかも覚えてないが、細蟹姫という響きが素敵で覚えていた言葉を思い出す。
 私の願い、か。
 叶うはずのないものだとは判ってはいるけれども。それでも、こんな夜くらい、夢に見るだけなら許されるだろう。
 夜明けまではもう幾許もないけれど、胸に生まれた疼きを静めるべく、ベッドに潜り込む。
 せめて、夢で逢えますように。
 目を閉じて、意識が沈む間際。聴こえるはずのない彼女の声が、耳許で囁いてくれた。


『おやすみなさい、良い夢を』

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