【夢と現の狭間に】 「夢で金平糖を三粒。」

 過去のわたしは、誰かにすがりついて泣いていた。なぜわかるかって、それを私が見ているからだ。そう、私がわたしを見ている。ということはこれは夢なのだろう。まさか走馬灯ではないだろうし。
 まだ世の中に対して無防備で、疑うことなどほとんど知らない、無垢故に未熟で蒙昧だった頃のわたし。恥ずかしい、と思いつつも、この頃はまだこんなにも可愛げがあったのだな、なんて苦笑いする。
 頭半分くらい背が高い少女が、私を優しく包み込むように受け止めてくれている。ふむ。ということは、これは彼女が高校卒業の時だろうか。夢の中故に朧げな記憶を探れば、一致する場面はそのあたりしか思い浮かばない。
 先輩が形の良い唇をわたしの耳に近づけ、何事かを囁く。すると、泣き縋っていたわたしは驚いたように顔を上げた。その言葉が何かは聞こえない。当たり前だ、私は彼女たちを俯瞰しているだけなのだから。そういえば、他の物音も聞こえないな。まるで無声映画のように場面は進む。ただ、その色彩だけは総天然色の輝きを持っていた。
 彼女の言葉にきっとわたしは頷いたのだろう。ゆっくり体を離すと、地面に置き去りだった鞄から手紙を取り出した。静かに微笑んでいる彼女も、いつの間にか手紙を手にしている。
 お互いに手紙を交換して、恥ずかしそうに笑っている。というか、この時の自分はこんな顔をしていたのか。
 ああもう、恥ずかしい。夢の中だとわかってはいても、顔が熱くなってくる。まさかこんなに乙女だったとは。この頃の可愛げが今少しでも残っていたら、今頃こんな生活はしていないだろうな、なんて。
 別に今の生き方を後悔しているわけではない。ただ、有り得たかもしれない選択肢は、確実に増えていたんだろうな、などと馬鹿なことを考えた。
 わたしたちは誰かを待っている。そう、もう一人。ここには後一人が足りない。
 暫しの時が過ぎ、待っていたもう一人が現れた。遅れたことなどどこ吹く風、いつも通りに飄々として、彼女は現れた。
 待っていたわたしたちは、口々に何かを言っている。後から現れた彼女は、特に悪びれた様子もなく謝っていた。しかし持ち前の愛嬌なのか、どうしても怒る気になれない。嫌いになれない。そうだ、彼女はそういう人だった。
 わたしたちの手に持っているものに気づいて、彼女が何かを言った。わたしたちは、イタズラっぽく笑うだけ。少しだけ拗ねたような様子を見せ、それでもすぐに彼女も同じものを取り出した。そして、わたしの目の前で二人が並び、向かい合う。
 二人が手紙を交換し、微笑み合う。まだ蕾の桜さえ、ほころぶように。ああ、言葉がなくてもわかる。音がなくても、憶えている。この時の二人は、確かに幸せだったのだ。
 私は傍観者だった。この時からずっと、否、これ以前から、彼女たちに出逢ってからずっと、傍観者だった。幸せな二人をただそこで見ているだけで、それで充分だった。充分だったのだ。
 この後は確か、わざと拗ねたようにして遅れてきた彼女に手紙をねだり、最初の予定通りに手紙を受け取って、そのまま帰ろうとしたらふたりに引き留められ、渋るわたしは無理矢理二人に連れられて——
 と、唐突に、色彩が薄まり始めた。併せて、はっきりと見えていたすべての形がぼやけていく。あんなに美しかった諸々が、ミキサーにかけられたかのように灰色になって溶けていく。待って、どうしてここで。だって、わたしはこの時——
 抗えない大きな力に引きずられ、私も世界と共に溶けていく。灰色の世界から、今度は真っ白な明るさに飲み込まれて。

 無機質なアラーム音が、私を夢から引き摺り出した。

 目を開くと、そこには見慣れた天井がある。体を起こそうとして、じっとりとした気持ち悪さが肌にまとわりついていることに気づいた。
 普段ではありえないほど、寝汗をかいていた。背中どころか、身体中から汗が吹き出し、寝間着まで湿らせている。
 思わずため息が出る。風邪を引いて高熱が出たわけでもあるまいに。いや、昔から何かあると熱を出していた自分の体質を忘れたわけじゃない。きっと仕事の疲れが溜まって、寝てる間に熱を出していたのだろう。寝る前は何か体が重かったし。
 とりあえず手探りで、枕元に置いたはずのスマートフォンを探して取り上げる。
 二〇二四年一月一日。午前二時四十五分。メッセージアプリが通知をいくつか出している以外、特に目立ったことはない。って、午前二時? まだ三時前? 昨日寝たの二十三時過ぎだぞ。というか、端末を拾ったのに音が消えない。
 寝起きで重い頭を働かせ、音の元を探る。なんのことはない、当直呼び出しのアラート音だった。いや、なんのことない事はないな。重い体を引きずって、受話器を取る。
「もしもし」
「あ、先生、すみません。三一一号室の患者さんなんですが」
 思わず体が硬直する。先輩。
「どうしたの」
 瞬時に感覚が冴え、口調も硬く、厳しくなる。そんな私の様子を察した看護師は、すみません、と前置きして
「脳波に変化が見られました。ごく僅かですが、一応ご報告した方が良いかと」「すぐ行く」
 相手の返答を待たずに受話器を置いて、手持ちの品を揃えて白衣を纏うと、すぐに当直室を出た。

 深夜の病棟は、ただでさえ無機質な表情がより冷え切って見える。私以外は当然誰もいない廊下を、急ぎ進んでいく。しかし頭の中では、さっきの夢が再生されていた。
「先輩、なぜなんですか」
 答えはない。あるわけはない。私が大学病院に入ってから、ここに先輩が現れてから、答えを聞けたことなど一度もなかった。
 彼女は夢と現の狭間を彷徨っている。わたしはそれを知っている。私がそれを識っている。けれど、まだ私たちは、彼女と語らう方法を見つけられないでいた。
 ナースステーションの明かりが見えてくる。寝汗がすっかり冷えて、背筋が震える。今の私はさぞ、酷い顔をしているだろう。彼女たちに、こんな顔を見せるわけにはいかない。
 一度足を止めて、呼吸を整える。背筋を伸ばし、白衣のポケットにそっと手を入れた。かさり、という乾いた感触が、私を落ち着かせてくれる。

 ——大丈夫、私は今日も頑張れる。

 俯き加減だった姿勢を正し、再び歩き出した。彼女たちが教えてくれた、私にしかできないことをするために。
 午前三時。夜明けは、まだ遠い。しかしこの冷たい夜ですら、今の私にはなぜか、愛しかった。

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