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便意とその日

尾籠な話ではあるのだけど、僕は割と便意に左右される日々を送っている。何を基準として“割と”なんて宣っているのか僕自身わからないけど、とにかく1日のうち、そう短くない時間を便意に左右されている。

“便意に左右される”と言うのは、別にデメリットだけではないのがこの話の肝となる。今回ピックアップしたいのは、便意の余韻。

そんなもん拾い上げるんじゃねえと声が聞こえる。嘘。読む人がほとんどいないこの記事から声なんて聞こえない。ひたすら無音の世界で徒然と便意について書き連ねている。

『今電車に乗った。お前んちまで30分くらいかな』

ある日、特に会う約束もしていなかった友人のベン・イーから、突然電話がかかってきた。
あらあら。まあ、30分後なら都合がつきそうだし、その頃には尻でも出して待てそうだ。じゃあまた、30分後に。

…かっこいい。待ち合わせの時刻を「30分後に」なんて、刑事ドラマの一幕だ。おあつらえ向きに奥まった席のある喫茶店で、誰にも聞かれることなく調査の次第を話し合う。

「調子は?」

「上々だ。これを見てくれ」

「形、色、文句なし。素晴らしい。」

『ああ、すまない、連絡が遅くなったが、今君の最寄の駅に着いた。会えるか?』

数日後、再びベンから着信あり。最寄りってことは、ゆっくり歩いても10分もない。手が離せるだろうか…。

何とか、いつもの待ち合わせ場所に間に合ったので、そそくさと尻を出して待った。間をおかずベンが現れ言った。

「やあ、待ったかい?」

「いいや、今来たところさ。どうも昨夜バドをキメすぎたらしい」

「やれやれ、もう少し引き締めるべきだよ。ちょっとゆるすぎやしないかい。」

急に連絡してきたお前に言われたかぁ無い。

『ドンドンドン!ドンドンドン!!』

誰かが我が家のドアを激しくノックしている。何だ何だ。どうしたってんだ。背中を冷や汗が伝うのがわかる。誰だってそうだろう? 
何の予告もない来客なんて、余程礼を欠いた野郎かガサ入れのポリだけだ、ああ。

「お、おいおいカンベンしてくれ! 突然やって来て僕の家をオープンカフェにしようってのは、全くどこのどいつだ!」

「ベンだよ、すまない。あまりにも急を要するから、連絡ができなかったんだっ! とにかく開けてくれ!」

「ちょっと待ってくれ、今は手が離せない…ああ、ノックをやめてくれ! 気が狂いそうだちくしょう!」

あわや自宅のドアが決壊するかって時に僕は尻を出す。同時にベンは蹴破って現れるんだ。
全く、とんでもない友人だ。こいつと死ぬまで付き合わなければいけないなんて、流石全人類の友はスケールが違う。

なんて経験、あると思います。でも僕が左右されるのはノックされている時の焦燥感ではなく、急用が済んで去っていった時。


「やっぱあいつ、いいやつだよなぁ。」

何の後腐れもなくベンが去った後は、彼との対話の時間を何度も反芻する。今日は特に淀みなかったな。何せ足跡すらないんだ。

たった1回のハイタッチには、今日の邂逅の喜びだけが交わされる。本当に君はここにいたのだろうか。幻かとさえ思うこともある。

彼がいたはずの場所には、やはり圧倒的な存在感の、その記憶だけ。もう一度会いたい。すぐに会いたい。ベンは答えない。僕は尻を仕舞いつつ、寂寥と万感の思いに浸るのだ。

ああ、だけど、もう会いたくない時に限って、不機嫌なベンは何度も訪れる。

そんなにノックをしないでくれ、すぐに開けるから……ああ、もう! 僕は尻を出す。
そんな日はハイタッチもなかなか決まらない。利き手からは不気味な感触が伝わる。

おい、また来たのか。忘れ物? さっさと持って出て行ってくれ。うんざりなんだよ。金輪際顔を見せないでくれ。

ああ、尻が冷えていく。

どちらの場合だとしても、余韻は残る。何なら軽く数時間引きずってしまう。その後の僕自身の機嫌も、職場でのパフォーマンスも、大いに左右される。

それでも彼が嫌いになれないのは、まるで僕を写す鏡のような存在だからだ。昨夜までの僕を写し出す、磨き抜かれた鏡。

『ドンドン!』

このノックは…ベンじゃないな。

『まだか! もう限界なんだ!』

ああ、なるほど。だけど生憎、今日のベンはドアの前でくたびれているようだ。引っ張り出してやらなきゃ。今日も僕は尻を出して待ち合わせ場所にいる。

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