第37話(最終話)
わいの名は佐藤。
S区のボス猫や。
考えてみりゃおかしなもんや。おれはただ”飼い猫“になりたかっだけやのに……まったく世の中なにが起こるかわからんっちゅうこっちゃ。
去年の夏──あのザンパノとの闘いから、はや半年が過ぎた。人間の言う歴で言うのなら一月も半ばに入ろうとしている。
あれからというものの皆はおれのことを『風を操るもの』と呼ぶようになった。なかなか気に入っている。ヴァンの『鳥の名前を持つもの』に匹敵するくらいのいいニック・ネームじゃないか。
ヴァンは帰還した。
一度は死の淵まで足を踏み入れたもののイシャータの寝ずの介抱により再び目を開いた。
捨て猫だったおれを拾ってくれたのはイシャータだったが、おれは彼女がのちにこう言ってくれたことを覚えている。
「ヴァンを救ったのはあなたよ、佐藤。私が捨てられていたあなたを助けたことにはやっぱり意味があったんだわ」
そんなものなんだろうか?──
おれがもっと早く駆けつけることができていればヴァンだってあれほど負傷することはなかったんとちゃうやろか?
そんな感じのことをおれは言ったがイシャータは「それは違う」と首を横に振った。
「そうじゃないの。なんていうかあなたがヴァンを救うことは私たちが初めて会った時から既に決まっていたんじゃないか…… みたいな」
まあ、そもそもが──イシャータがおれをあのまま見捨ててたら、今の自分などない。とっくの昔にこの世からおさらばしてたはずだ。不思議な気がした。
「つまり私があなたを助けたあの時、あれはきっと何かに試されていて……う~んと、なんだか、そんな……」
「? ? ?」
「ダメだわ。うまく説明できないや。でも、きっといつかあなたにもその意味がわかる日がやってくるよ」
イシャータはそう言うとシャム特有のブルーの瞳でおれをじっと見つめた。
おれにはなにやらさっぱりわからなかったが、まあいい。イシャータの言うことはいつも正しいような気がする。いつかわかると言うのならきっといつかわかるのだろう。
おれは今、寒空の下、目の前で車が行ったり来たりするのを眺めている。
ここは初めてミリーに会った場所だ。N区とS区の境目にあるコンビニ前の交差点だ。
ミリーはろくに飲まず食わずでヴァンに寄り添うイシャータの姿を遠目でずっと見守り続けた。
幼い頃からヴァンに憧れていたミリーにとってその姿はどういう風に映っていたのだろう。
ヴァンとイシャータ、そのふたりの姿を眺めているミリー。そしてその後ろからミリーの小さな背中を見つめているおれ。
その心のうちはどれほど似ていたことだろう?
おれはミリーの胸の痛みをどうすればわかってやれるのだろうとずっと思っていたのだが実はそうじゃなかった。
ミリーの痛みとは、つまりおれの痛みだったのだ。
そんな簡単な、単純なことに気付くとおれは急にミリーが愛しくなった。これまで以上にもっともっと愛しくなり、おれはミリーの隣に腰かけた。
別段、意識したわけじゃなかったのだが、おれの前足がミリーの前足と触れ合った。
「……佐藤?……すごいね。ザンパノに勝ったんだってね」
「喧嘩する猫は嫌いやなかったん?」
おれとミリーはヴァンとイシャータの方に顔を向けたまま、そんなことを話した。
なんとなくぎこちなくはあるが、それでもその時のおれはきっと、世界中のどんな猫よりも穏やかな気持ちだったに違いない。ミリーは触れた前足を特に避けようとはしなかった。おれはもう、それだけで十分だった。
あの闇と灼熱の冷蔵庫の中、もしも、ミリーにもう一度会うことができたならいっぱいいっぱい伝えたいことがあると切望していたはずなのに──なんだかそんなこともうどうでもよくなった。
おれたちは決してまだ向き合っているわけじゃない。けれど今、確かに同じ方向を向いている。いや、ひょっとしたら向き合うことよりもそっちの方がずっとずっと大切なのかもしれない。
ひんやりとした冷たさが少しだけ入り混じる風が心地よかった。夏が終わろうとしていた。
──冷たいものが鼻の頭にあたっておれの回想は遮断された。
なんだこりゃ?
ふわふわと空に舞う冷たい綿毛。
雪や。
(ほんまに空から氷が降ってくるなんて!)
話には聞いたことがあったがこの目で見るのは初めてだった。そんな舞い散る雪をずっと見上げていると、このところ頭を占めている思いが顔を覗かせる。
だが、今はそんなこと考えておれへん。
今日はボスの座をかけたバトルの日や。いわゆる防衛戦というやつだが、今日の挑戦者は少しばかり手強い。
氷川神社についた時、“その猫”はすでにおれを待っていた。
「なんだ、ずいぶんと待たせるじゃないか」
掠れた声が問いかける。おれはその声を聞いて、ちくりと胸が痛んだ。
そう、今日闘う相手は他ならぬヴァン=ブランだった。
なんとか急所は避けたもののザンパノの一撃はヴァンの魂である”声“を奪った。喉にまだ多少ひっかかりがあるものの、ヴァンはお得意の笑い声をあげた。
「あっはっは! 俺も舐められたもんだな」
「そんなことあらへんよ。いくらヴァンいうたかて手加減する気はこれっぽちもあらへんで」
おれもニヤニヤ笑ったが、それは紛れもない本心だった。そもそもヴァンに勝てるなんて鼻から思っちゃない。だが、全力でぶつかって“負けなければ”──俺は気持ちよく旅立つことができないんや。
おれは今まで、ヴァンは何でも知っていて、何でもできて、そして誰にも負けないヒーローの様な存在だと勝手に思い込んでいた。
あれはそう、おれ達が猫屋敷からS区へ移って間もない頃──おれがたまたまヴァンとクローズの会話を聞いてしまった時のことだ。
クローズは泣いていた。彼女はヴァンの声を奪ったのはフライであり、そしてその責任は自分にあると思い込んでいたいたのだ。
「ヴァン、私は間違っていたのかな…… ?」
( 婆さん、俺は間違っていたのかな……? )
ヴァンはその時、夢の淵で出会った栗色の猫に自分がまったく同じことを言ったのを思い出していたという。
「クローズ、俺さ。婆さんに会ったんだぜ」
「?」
「いつか、その時の話をおまえだけにはしてやれるといいなって思ってる。おまえは間違ってない。俺達はいつだって──」
ヴァンはそこで口ごもった。
今、考えてみるとヴァンはひょっとしたらこう言いたかったのかもしれない。
(俺達はいつだってフライのようになってしまう可能性をも秘めているんだ)
──と。
だとすれば、おれにはその意味が少しだけわかるような気がした。おれはヴァンに抱いた嫉妬を思い出す。今回はたまたま”それ“がフライの番であった。それだけなのだ。
「でもクローズ、おまえにもひとつだけ間違ってるところがある」
クローズはピクリと耳を立てた。
「以前、おまえは俺にフライを選んだことは後悔してないと言った。俺は一匹でも生きていけるからってな。だけど、それは──本当は……そうじゃない」
盗み聞きとはいえ、それは孤高かつ豪快だと思っていたヴァンの『弱さ』を俺が初めて垣間見た瞬間かもしれなかった。
(一匹で生きていけるやつなんてこの世にいるはずがないんだ──)
まさかヴァンの口からこんな言葉が出てくるなんて想像していなかったおれは驚いた。しばらくその場から動くことができなかった。
(ヴァンもまた、おれと同じ“ただの”一匹の猫なんや……)
おれは考えた。たまたま風が味方してザンパノに勝ったとはいえあれはただの偶然や。おれの実力なんかやない。史上最年少のボス猫だと威勢を張ってみたところで、いったいそれが何だというのだろう。
さほど遠くない未来、このままでは俺は誰かに必ず敗れる。それも、目も当てられぬくらいコテンパンにだ。
たまたま築かれた牙城ほど脆いものはない。そんなことに固執してどうする。一度──
(バラバラにするんや。自分の意思で)
考えてみると俺にはまだわからないことだらけだ。この雪のように、見たことのないもんがきっと世の中にはまだまだいっぱいあるんや。
(──旅立ちたい)
ヴァンが見た海というものを見てみたい。
ヴァンが話したというウミネコとも話してみたい。
ヴァンは決して特別な猫やあらへん。
だったら、おれだってヴァンのようになれるはずなんや。
このところ寝ても覚めてもそんな思いが頭から離れない。それは薄っすらと上り来る朝日を眺めていたある朝のことだった。ヴァンがおれの隣に腰掛けてきた。
「どうした?」
「な、なにが?」
「最近、随分おとなしくなっちまったな」
「わ、わいかて考えることがあんねん。いつまでも子猫扱いせんといてや」
「そうか……そうだな」
「……」
どれくらいそうやっていただろう。正直な気持ちを言えば、おれは、その瞬間が永遠に続けばいいなと思っていたんや。ヴァンが隣にいて、イシャータやミリーや──気の知れた連中とこうして、いつまでも一緒に楽しく過ごしていたい、そう思ってたんや。
ヴァンがポツリと呟いたのは朝日が辺りを白々と照らし始めた頃だった。明けの明星が輝いていた。
「佐藤、俺はおまえに闘いを申し込むよ。もちろん”S区のボスの座“を賭けてだ」
「…………」
「もしも、おまえが負けたら、当然おまえはボスじゃなくなる。ここにいる必要もなくなる」
わかってる。
ヴァンはおれの気持ちを察してるんや。
『行け──』、言うとるんや。
泣きそうになったが泣かなかった。
そう、強いオスは泣かない。
おれは、初めてオスに生まれてよかったと思った。おれは、やっぱり──ヴァンのようなオスになりたい。
「いくで、ヴァン!」
おれは高く鳴き、全身の毛を逆立てた。
(帰ってこいよ、佐藤。もっともっと強く、でかくなって、俺からまたボスの座を奪ってみせろ──)
ヴァンもその銀色の毛並みを逆立て返した。
おれはヴァンに、今のおれが持てる最速のスピードで飛びかかっていった。
嬉しかった。
ヴァンは──
ヴァンは今、おれのことを一匹の男として睨み付けてくれている。
〈 了 〉
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