第26話
わたしの名はペイザンヌ、N区の野良猫だ。
たとえば目立ちたくない時、人間であればどうするか? そう、路地裏を歩けばいい。だが困ったことにわたしたち猫というものは何故かその目立たない路地裏や狭い場所を好む。
よって猫が目立ちたくない時にはどうすればよいか? そう、それは人間とは逆、つまり表通りを行くのが正解なのである。
さて、ここにその表通りを堂々と──いや、さすがにそれは言い過ぎか──表通りをこっそりと歩く猫がここにいた。誰の目にも触れず、一路S区へ。──だが、いくら目立たないとはいえ、それにも限界があった。
「おい」
黒猫のフライは誰かに呼び止められびくりと背を丸めた。
「おい、おまえだ。そこの黒猫」
フライは恐る恐る振り向く。はじめはそこに鏡でも置いてあるのかとフライは思った。声の主は自分と同じ黒猫であった。黒猫は睨みをきかせる。
「同じクロ同士でこんなことは言いたかないが、貴様、S区の猫じゃないな?」
そう。フライは今、この縄張りのボス、ザンパノとの交渉に向かっているのだ。
黒猫は赤い舌を見せ、背中を少し立てた。シャーッと蛇のような警戒音が不気味に響く。
──まずい。
フライはいつでも逃げ出せるよう、後ろ足に力を入れた。が──次に響いてきたのは黒猫の笑い声だった。
「……な~んてな。ギノス様から話は聞いてる。おまえ、ヴァン=ブランの使いの者だろ?」
「?」
フライはなんとなく情況を理解し、肩の力が抜けた。なるほど、こいつはギノスがS区に忍ばせていると言ってた”潜入捜査員“だな。
「だがそんななりじゃ遅かれ早かれ囲まれて袋にされちまうぜ。N区の匂いがプンプンしてら」
黒猫は「見ろ」と言わんばかりに塀沿いにある電柱をあごで指した。
「あそこはザンパノの手下やらS区の上層部御用達の“トイレ”だ。悪いことは言わん。少しばかり匂いをなすりつけといた方がいいぞ」
フライは目を細め、引きつった笑みを見せた。
「じょ、冗談──」
黒猫は微笑み、そして首を横に振る。
「──じゃないみたいだな」
フライは渾身の力でもってぐねぐねと電柱の下の地面に体を擦り付ける。
──くそ! なんで俺がこんな目に……くそっ! くそっ! 今にみてろよ、ヴァン!
”S区“の一画にある酔いどれ横丁。その片隅にぽつりとある居酒屋『どら猫』の跡地──ありがたい“カモフラージュ”のおかげでどうにかここまで辿り着くことができたフライだったがそれを真似し、S区の匂いを体中に擦り付けた猫がもう一匹いた。
フライの後をこっそりつけてきた佐藤である。佐藤は探偵ごっこをする子供のようにワクワクと胸を踊らせフライの様子を遠目から覗いていた。
そんなことなどまるで知らないフライはその錆びれた建物を仰ぎ見る。ギノスたちの情報が正しければザンパノはここをねぐらにしている。場所は合っているはずだが『どら猫』という昔の看板はすでに取り外されていて、その代わりに真新しい看板がこう自己主張していた。
[BARBAR BABA]
『床屋に改装する……のか?』
フライは首を傾げた。
さて、どこから入ったらいいものやらとフライは鼻をきかせた。情報が正しければ必ずどこかにヤツらが出入りできる猫専用の出入口があるはずだ。
そう踏んで店まわりをぐるっと一周探ってみたところ案の定、丸々一枚ガラスの抜けた窓を見つけた。脇にある薄汚れた黄色いビールケースを踏み台にしてそこから侵入しようとしたその時、フライは地面についている巨大な足跡に気付いてギョッとなった。
──な……なんだこりゃ?!
自分の前足をその足跡にペタリと当てはめ、フライはぶるりと震えた。デカい。やはり噂は本当なのか?
怖じ気づく心を押さえ付けたのは脳裏に浮かんだヴァンの顔だった。
──くそったれ。このまま手ぶらで帰れるかよ!
その時、頭上で何か動いたような気配がしてフライは窓の方を見上げた。窓枠に小さなサビ猫がちょこんと座りこちらを見下ろしている。
佐藤より少し大きいくらいだろうか、一見すると子猫と間違えてしまいそうなほどだった。以前にもどこかで書いたがサビ猫はそのほとんどがメスである。オスのサビ猫というのはとても珍しく、そのことにもフライは少し驚いていた。
サビ猫はまるで今目覚めたといわんばかりに眠たげな目で「誰だ? おまえ」とフライを睨んだ。
おそらくはザンパノの手下であろうと推測してフライは告げる。
「俺はN区から使いで来たものだ。ザンパノ殿に話がある。どうか取り継いで頂けないだろうか?」
サビ猫はフライの顔をしげしげと眺めると「入れ」と短く答え、建物の内側へひょいと飛び降りた。フライはゴクリと喉を鳴らすと意を決し、しなやかな動きでその後に続いた。
その一部始終を見ていた佐藤はフライと同じようにビールケースの上に飛び乗った。そしてそのまま立ち上がる格好で前足を窓枠に引っかけこっそり中を覗き込んだ。
(いよいよザンパノが見れる!)
佐藤は鼻の穴を広げ興奮した。
夕刻も迫り屋内は暗い。が、そのことは夜行性の猫にとっては関係のないこだった。
さほど広くはないが、建物の中は居酒屋の跡地らしく埃を被ったカウンターやテーブルがあった。
フライは最初そのカウンターの上に放置された巨大なゴミ袋が動いたのかと思った。丸々としたゴミ袋から腕が生え、そして足が生える。やがて蘭々と光る眼が開き、のそりと鎌首を持ち上げた時、ようやくフライは自分が誰に会いに来たのかを思い出した気がした。
(こいつが……ザンパノ──)
「黒猫、名前はなんだ? おまえの名を言え……」
『あれがザンパノ……? うわ、でっか! なんやねんアレ。うっわ、めっちゃデカっ!』
佐藤の興奮は頂点に達そうとしていた。
さらに不本意だとわかっていながらも佐藤はこう思わずにはいられなかった。
──アイツとヴァンが闘うところを見てみたいもんや……
「お、俺の名はフライ……」
「フライ……?」
まるでソフトボールのように巨大な目玉がカウンターの上からぐいっと覗き込んでくる。
「フライ=飛ぶ=鳥……。鳥、鳥! 鳥っ!!!!」
「落ち着きなよ、ザンパノ。どちらかといえばフライは『蝿』だ。『鳥の名前』じゃないよ」
興奮するザンパノをシースルーが少年のような声でなだめた。
「あ…………?! その、お……おれは……」
フライはそのままへたり込みそうになるのを必死で堪え、足の震えを隠した。
(なんてこった…………)
あまりの驚きのため、なかなか言葉にならない。とにかく今は成すべきことを成さねばならないとフライは体勢を整え直し、深く息を吸い込むとザンパノに向かってこう告げた。
「俺はN区のヴァン=ブランの使いでやって来た」
「ヴァン=ブラン?」
その名前にシースルーのヒゲがピクリと反応した。
NEXT
第27話
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?