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九分の一生物語 ①

あらすじ
猫のジョルジュが話している相手は人形。中には飼い主比露美の、死んだ母親の魂が入っている。ジョルジュは比露美の母親に猫が九回生きることと、夢は前世か後世であることを話し、比露美の母親は自分が死んだ時の様子をジョルジュに話す。比露美は自分の誕生日に母親に悪態をつき始め、やがて怒りの矛先は兄へ。母親の言葉に腹を立てたジョルジュが人形を引っ掻き、それを境に中から母親がいなくなる。ジョルジュはある日の眠りの中でかつての飼い主、シベリア抑留から戻ってくるはずの夫を迎えに行き吊り橋から落ちて帰らぬ人となった加代という名の老婆の夢を見る。その後、比露美の母親が人形に戻ってきて、生まれ変わりが近いことを告げる。

1.
黒猫が室内を所狭しと飛び跳ねている。爪を出し、狩りの対象をじっと見つめ狙いを定めてジャンプする。
≪面白いな。黒い小さな生き物がいっぱいだ。獲っても獲っても減らないよ。ほいっ、それっ、っと。これって、みんなあんたが創りだしたの?あんたみたいな人はみんな、こんな芸当ができるのかい?≫
タンスの上から返事が返ってくる。
≪あたしの飛蚊症がそんなに気に入った?≫
≪ヒブンショウっていうのか?≫
ものを言われても声の主を見られないほど、黒猫はハンティングごっこに大忙しだ。
≪網膜剥離になった時、目の前はこんな感じだった。ちらちらする黒い小さな点みたいなものが数え切れないくらいたくさん見えるの≫
≪モウマクハクリ?≫
黒猫が、聞きなれない言葉に動きを止める。
目玉の裏側の網膜っていう所に小さな穴が空くんだって。お医者さんがあんまり早口でその時は聞き取れなかったけど、娘に後で聞いたらそう言ってた≫
≪裏側なのに、穴が空いてるなんてどうやってわかるんだろうな。ま、オレはそのおかげで楽しくハンティングごっこができるからいいけど≫
黒猫はそう言って、またハンティングごっこを再開した。
≪もうそこそこ大人に見えるけど、たまをとるのね≫
≪オレは、たまはとらないよ。比露美に無理やり連れて行かれた病院で白衣着たオヤジにタマを取られたけど≫
タンスの上の相手が、くすっと笑った。
≪動くものにじゃれることを、たまをとるって言うのよ。最近では言わないのかね≫
≪そうなのか。でも、そこそこ大人は関係ないよ。猫の生活は食う、寝る、遊ぶ、瞑想、子作り、子育て。ま、子作りはオレの場合もう関係ないけど≫
≪恋もできないのね。子供の親にもなれないし。娘を恨んでる?≫
黒猫は動くことを忘れたように片前脚を高く上げたポーズのまま、話している相手をじっと見た。
≪娘って比露美のこと?あんた、比露美の母親なのか。比露美にこんな小さなおふくろさんがいるとは知らなかった。どうやって生まれてきたんだろう≫
話し相手は、愉快でたまらないというように≪ふふふ≫と笑った。
≪これはあたしのもともとの体じゃないのよ。元の体の中にもういられなくなったものだから≫
≪ふーん。なんか事情があるんだな。動かないけど、前々からあんたからは気配を感じてたんだ≫
≪あなた、ジョルジュって名前なの?≫
≪比露美がそう呼んでるのを聞いたのかい?≫
≪それもあるけど、その首輪についてる猫の顔の形の名札に書いてあるから≫
≪この首輪、めちゃくちゃ恥ずかしいんだよ。でも、別に外に出て誰かにこれを見られるわけじゃないからな≫
≪ジョルジュって、しゃれてていい名前だと思うよ≫
≪ジョルジュ・ブラックって画家がいて、オレの体の色がブラックだからだって。でも、その画家はフランス人で、そいつの『ブラック』は黒って意味じゃないんだって。わけわかんないよ≫
浮遊する無数の小さな黒いものはもう消えている。そして、ジョルジュも、もうそれに対する興味を失っていた。
≪で、さっきの質問だけど、プラスに考えれば、子作りに費やしたはずのエネルギーを思考に向けられるから、別に比露美を恨んでなんかいないよ。こういうのを〈昇華〉っていうんじゃないのか≫
≪〈消化〉は違うと思うけど≫
≪うーん。多分あんたの言ってるショウカはおれのショウカと同じじゃない。なんていうか、もっと学問的な意味なんだ。去勢猫と避妊猫の30%が哲学者になる。性欲に割いていたエネルギーを全て思考に向けるからだ。30%がデブの哲学者になる。思考と食欲に向けるから。で、40%がただのデブ猫になる。このグループは食欲オンリー≫
≪あなたはあんまり太っていないのね≫
ジョルジュは自分の体を見回し、毛並みの乱れに気がついた部分の毛づくろいをした。
≪比露美に言わせれば腹のあたりがちょっと垂れ気味なんだって。でも、肥満猫にはならないよ。比露美がいやというほど気をつけてくれるからな。カロリーと栄養バランス。太ったら健康によくない、長生きできない、って言って≫
話し相手はため息をついた。
それはきっと、長い間あたしを見てきたせいだね。あたし、昔は太っていてね、高血圧で糖尿病だった。糖尿病がもとで白内障になったの。町医者で受けた白内障の手術が失敗で、そのせいで網膜剥離。大学病院に行って2回手術を受けたけどそのたびに悪くなって、最後は片目が見えなくなったの。もちろん、今は違うよ。今はなんでも良く見えるよ≫
ジョルジュは話し相手の目をしげしげと見た。
≪そんな、睫毛が束になって全部上を向いてて目玉がほとんど黒目で、縦と横の寸法が同じのでっかい目だったら、何でも見えそうだな。でも、片目が見えない時ってどんな感じだ?≫
≪こんな感じ≫
いきなり、部屋が半分なくなった。
≪ぎえええ。いいよ、わかったよ、戻してくれ。オレは探検や身の安全のために自分で行く時以外は、狭いところは苦手なんだ。ただでさえ、世界はどんどん狭くなってるってのに。最初はこのへんの界隈は全部世界だったのに、今はこの家だけが全世界。夜になってドアが閉まると比露美の部屋だけが全世界だ。どんどん減ってしまう≫
≪あなたが一緒でないとあの子は寂しくて眠れないみたいね≫
≪夜はまあいいよ。オレはオレで比露美の腕を顎のせ枕にして眠るのが好きなんだから。問題は昼間だ。オレは家から出されてもちゃんと帰ってくる。前の家ではそうしてたんだ≫
≪あの子がこれまでに飼ってきた猫たちが、外へ行ったきりいなくなったり、猫ジステンバーで死んだり、交通事故で死んだりしたから、外へ出すのが怖いのね。きっと≫
≪オレは車と病気の猫には近づかないし、飯とあったかい寝床を捨てて家出なんかしない≫
これを聞いて、話し相手が首を傾げたように見えた。ただ、固定されているので実際に傾げることはできない。気分的なものだろうと、ジョルジュは思った。
『前の家では』っていうことはそこから出てきたんでしょう?それとも、捨てられたの?
ジョルジュは後ろ脚で耳の後ろを掻いた。
≪ある日、家に帰ったら窓もドアも閉めきられてて、猫穴もふさいであって、中がもぬけのからだった≫
≪転勤シーズンじゃなかった?≫
≪オレの知ってるシーズンは、何十回数え直してみても4つきりだ。とにかく、オレは腹が減るか日が沈むかしたらひとりでに帰ってくるんだ。比露美にそう言ってくれ≫
「あたしの言葉は比露美には聞こえないみたいなの
≪あんたの言葉も聞こえないのか。不便な耳にしてるな。オレの言う言葉も『ニャー』とか『ミャー』とかそんな風にしか聞こえないみたいだし。人間てヤツは、聞き取れる音の波長が少なすぎるんじゃないか?おい、でも、あんたにはオレの声が聞こえてるんだな。あんたは何?人間にしてはヤケに寸詰まりで目がでかいと思ってはいたけど≫
その時、家の外から車の音が聞こえて来た。
≪おっと、比露美が帰ってきた。おかえりー。比露美、メシくれ。メシ≫
ドアが開いて、比露美が入ってきた。
「ただいまー。ただいま、ジョルニャン」
彼女はジョルジュを抱き上げ、頬ずりしてからそっと床に降ろした。ジョルジュは不服が伝わるように顔をめいっぱいしかめて、比露美の顔を見上げた。
ジョルニャン?また、新しいアレンジか?≫
「いい子にしてた?」
比露美はジョルジュの表情など意に介さない。
≪まあ、そこそこにな≫
「ジョルニャンに会いたかった。会いたくて一生懸命帰って来たんだよ。法律の許すぎりぎりのスピードで」
≪それって、厳密には多分アウトってことだよな≫
上目遣いのジョルジュの頭を撫でながら、比露美が答える。
「そうか、ジョルニャンもママに会いたかったんだね」
≪やっぱり会話が噛み合ってないや≫
比露美はジョルジュの背を撫でてから、キッチンへ向かった。待っていれば食事にありつけるとわかっていても、ついついジョルジュもついていく。
「トイレットペーパーや洗剤がぎゅうぎゅうに詰まった箱を、歯を食いしばって運んで、わけのわからないことで怒り狂うお客さんに無理に笑顔作って、本当に疲れるよ。でもね、仕事はきついけど、それでジョルニャンのご飯代稼いでるんだからね。がんばらないとね」
≪ま、つらい義務を誰かの為だと思うのはいいことだよ。出所のわからないエネルギーが湧いてくるから。高すぎて飛び上がれないって日頃思ってた塀でも、子供の後ろ首くわえて犬から逃げる時は飛び上がれたって、うちのおふくろが言ってたぜ≫
『キャットフード』と書かれた戸棚の前まで行くと、比露美はしゃがんでジョルジュの顔を覗きこんだ。
「ああ、ジョルニャン。なんてキュートなの。目がまん丸だ。頭の手ざわりいいなあ。背中つやつやしてるなあ。スコティッシュフォールドにもアメリカンショートへアーにも負けないよ」
≪うん、もちろん負けたことはない。オレが負けたことがあるのは、スカーフェイスって通り名で体重30ポンドあるオスのトラジマだけだ≫
「『無人島に何持って行く?』って聞かれたら、迷わず『ジョルニャン』って答えるよ」
≪オレは全力で拒否する≫
「一億円つまれたって、ジョルニャンは手放さない。だって、印刷すればいくらでも同じものが出てくる福沢諭吉と世界に一匹しかいないジョルニャンを取り替えるなんて、とんでもない」
≪相手の家からそうっと戻ってくるから、その金半分使って超高級カニカマ買ってくれ≫
比露美はストッカーからカップを使って猫用食器にドライフードを入れ、ジョルジュの食事スペースに運んだ。ジョルジュが上機嫌で甘えた声を出しながらついていく。
「ああ、ジョルニャンかわいいなあ。ジョルニャン、なんでそんなにかわいいの?」
≪そりゃ、もちろん、人間からメシをもらうためだよ≫
「はい、ジョルジュ。ドライフード」
食事が決まった場所にちゃんと置かれるまで待たず、ジョルジュが飛びついた。そして、一口食べるとふり向いて比露美の顔を見上げた。
≪うん。やっとちゃんとした名前を思い出してくれて嬉しいけど、十秒待ってやるから缶詰くれ≫
この時、比露美が家に帰り着いてから初めて、奇跡的にコミュニケーションが成立した。
「そして、ウェットフードは舌平目のテリーヌ仕立て」
比露美が缶を開け、中身をドライフードの上にかける。
≪そうか。今日は金曜日か≫
「混ぜるから待ってね」
比露美が猫用食器を持ち上げ、ジョルジュは彼女のズボンに爪を立てて登る真似をして抗議した。
≪くれたはしから取りあげるなよ≫
「痛い。ズボンに爪たてないでよ。わかった、わかった。下で混ぜるから」
比露美は猫給餌用のプラスティックスプーンを使ってジョルジュの食事を混ぜ、ジョルジュは隙を見て顔を突っ込む。
「こら、こら。君のヒゲごと混ぜちゃうでしょ、もう。かわいいなあ。ジョルジュ、大好きだよ」
≪うん。オレも比露美、大好きだよ。そして、この一週間に一度の特別メニューも大好きだ。ああ、うめえ≫
「ジョルジュがこの家に来てからもう一年になるんだね。『13日の金曜日に黒猫が来た』って言ったら会社の友だち何て言ったと思う?『嘘でしょ』って言った人が3人、『ええっ、本当?』って言った人が2人。あと、『宅急便だった、ってオチでしょ』って言った人が1人。それ聞いて『私もそう思った』って言った人が一人」
≪それ、3回聞いた≫
≪それ、あたしのお気に入りのお皿≫
タンスの上から声がした。
≪え?オレのメシ皿だよ≫
ジョルジュが見上げて返事をする。
「ジョルジュ、どこ見てんの?あ、またあの人形見てる。前にも言ったけど、あれは大事なお祖母ちゃんの形見だから、爪で引っ掻いてキズなんかつけちゃダメだよ」
≪三つほど訂正があるんだけど。まず、オレには二本足のばあさんはいない。比露美からみたらお祖母ちゃんじゃなくて母親。それに、形見じゃなくて、実際その中に本人いるぜ≫
比露美はジョルジュの顔をじっと見た。
「そんなに必死で鳴いて、今度は何してほしいの?そうか、ネズミさんで遊びたいんだね。よーし、食後の運動だ」
彼女は段ボール箱から紐の先にネズミの玩具の付いた釣り竿を取り出した。
≪ま、それはそれで楽しいからいいよ≫
比露美の振り回す玩具に熱中し始めると、ジョルジュは人形のことなどもう忘れてしまった。
≪どりゃ。そりゃっ、と。比露美、少しは気を使って、オレがジャンプして前脚の届くところまで高度を下げてくれ≫
「♪トムとジェリー、仲良くケンカしな。猫の周りをねずみが回る、ぶんぶん。びゅーん、びゅーん。それっ、それっ。ああ、私の目が回る」
バランスを崩して比露美の体が斜めになり、玩具の回転の軌道が変わった。思い切り跳びかかろうとしてそれに気づき、咄嗟に体をひねったはずみにジョルジュが後ろに倒れた。
≪いてっ、しまった≫
「あはは。猫のしりもち初めて見た」
ジョルジュは慌てて猫特有の『何もなかったことにする表情とポーズ』をしたが、比露美は笑い転げている。
≪会社で言いふらすんじゃないぞ≫ 
比露美はまた、玩具を振り回し始めた。
「こうやってジョルジュを運動させないと、太っちゃうもんね。ママがこのネズミ動かしてるってわかってるかな」
≪竿と紐が見えてるだろ≫
「ぜえぜえ、アラフォーには仕事の後の運動はコタえる」
比露美は両手を膝に当てて前かがみになった。
≪比露美がそこまで無理しなくても、オレは一人で全力疾走ごっことか階段往復とかしてるから、疲れたらやめていいよ≫
比露美が、にやっと笑って顔を上げた。
「それっ」
≪あっ、きったねえ。トリッキーなまねしやがって≫
ジョルジュは比露美の背後から回りこんで、飛んでくるネズミの玩具に飛びついた。
「うわ、不覚。先回りとは。ジョルジュ、すごいね。賢い、賢い。もしかして、知能は人間並みなんじゃない?」
≪お魚のほぐし身とやわからチキンしか食べられないようなよちよちみーちゃんだったら、その程度かもな≫
比露美は息を切らしながらジョルジュの背中を撫でた。
「ジョルジュはすばしこいし賢いし、かわいいし、世界で一番ステキな猫だよ」
≪それ、断定できるのか?いつの間に世界中の猫を見てきたんだよ≫
「ジョルジュ、ずっと一緒にいてね」
比露美は玩具を投げ出して、ジョルジュに頬ずりする。
≪うん、わかった≫
「どこにも行かないでね」
≪それより、トムとジェリーゴッコの続き≫
ジョルジュは恨めし気に床に置かれた玩具を見た。
「胸とお腹の毛がもふもふしてる。気持ちいい。どれどれ、ご飯食べて重くなったかな?」
比露美がジョルジュを抱き上げる。
≪ついでに、そこの窓から外の景色見せてくれ≫
もちろん、この言葉も比露美には伝わっていない。
「ああ、ジョルジュがいて幸せだ」
≪…そら、よかった≫
比露美に頬ずりされながらも、ジョルジュは早く気づけとばかりに玩具に視線を注ぎ続ける。だが、比露美は全く意に介さない。
「ジョルジュ、大好き」
≪だから、トムとジェリーゴッコの続き…≫
ジョルジュが床の玩具を見ていることにようやく気づいた比露美は、彼の頭をなでながら言った。
「今思い出したけど、食後の猫はもどしやすいから遊びに誘っちゃダメなんだった」
≪俺はそんなにやわじゃない。いやだ、まだ遊ぶ≫
比露美に抱かれて連れ去られながらジョルジュは、援護を求めるようにリビングのタンスの上にある人形を見た。密集したまつ毛が下を向いて、なんだかうなだれているように見えた。
                            つづく


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