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「異界」展を通して感じ考えたこと

先日、栃木県立博物館で開催されている「異界」展を訪れました。伝説の生き物に興味があり、子どもの頃に河童に遭ったことがある私であるためとても興味深い内容だなぁと思い、インターネットで知るなりすぐに出かけました。企画展終了までに行けてよかったです。

ちょうど無料で入館できる日に来館しました!

今回はこちらの展示を通して感じ考えたことをまとめていきたいと思います。

「異界」を創る〜〝あいだ〟を創り対話や物語を生み出す〜

まずは、先人たちが「異界」を創った際に用いた方略、そして「異界」があることによって生まれるものについて考えていきたいと思います。

まず私が印象に残ったものが、こちらの「大草鞋」でした。「人が履くものより大きく、雑に作り、未完成で終える」という説明が印象的です。

こちらが「大草鞋」。確かに踵部分が未完成です。
「大きく、雑に作り、未完成で終える」という点に先人たちの工夫を感じます。

人と「異界」に住む存在とを繋ぐきっかけを創るための1つのアプローチとして、先人たちは「大きくする」、「雑にする」=「未完成にする」という方略を用いたことが見えてきます。こうすることで双方に〝あいだ〟=未知の要素が生まれ、そこに人間の想像や「異界」の住人たちの存在が入り込む余地ができるのです。

よく我々がイメージする脚がない幽霊の絵も、全体像を描かないことによって我々の想像が入り込む余地と、幽霊が存在感を放つ余地(完全に見えなくしてしまうと「幽霊は存在しない」ことになるし、完全に見えてしまうと、もはや人間と変わりがない。こうした「ホント」とも「ウソ」とも言えない絶妙な塩梅が、この「脚をぼやかす」というアプローチなのだろう)の双方が生まれるのだなぁと感じました。

絶妙な〝あいだ〟を見てとることができる幽霊の絵。この表現方法は、いったい誰がどのようにして生み出したのだろう。

河童などの幻獣たちも、こうした「ホント」「ウソ」を越えた絶妙な〝あいだ〟の中から生まれ出ていることがわかりました。

似たような特徴を共有しつつも、各地の土地柄など様々な要素が混ざり合い、特異的な河童像が生まれてゆく。
だからこそ、こうした図鑑的なものができたのだろう。この差異を生み出すことが「異界」や〝あいだ〟の役割であると考える。

興味深いのが、こうした絶妙な〝あいだ〟があることによって対話や物語が生まれていくということ。

仮に「100%ホント」か「100%ウソ」であるという事象があった場合、きっとそこからは「それを受け入れる」か「それを否定する」かという状況が導き出されることでしょう。そして、その結果起こる事態は受諾か闘いかであり、それ以上の対話や物語は生まれません。

そうではなく〝あいだ〟があることによって、揺れ動きながら対話や物語が続いていくことになるのです。

民俗学は専門ではないですがおそらくこういった〝動き〟の軌跡こそが民話であり、単なる「コピペ」ではなく、共通の要素を持ちながらもその土地の特徴や時代背景、語り手の完成などの新たな要素を含みながら変化し続けていくというところに、「知」とは何かを考える重要な手掛かりがあるように思いました。

「異界」を閉ざす〜「安定」を取り戻す〜

以上が「異界」の建設的な要素であり、だからこそ先人たちは「異界」を大切にしてきたのだろうと思います。

一方で「異界」は「未知」であり、故に恐怖心などのネガティブなものを引き起こすという側面も持っています。いわゆる「日常」を崩すような状況に直面した時、多かれ少なかれ動揺が生じるのではないでしょうか。このような「非日常」を感じる節目に「異界」が表れると先人たちは考えたようです。

こうした「非日常」は時代を越えて多かれ少なかれ動揺やストレスとなっていたようだ。

私も季節の変わり目や突然のイベント(特に、急な訃報)には滅法弱く心身ともに大きなストレスを感じます。なので「大きな節目」を「異界」として捉えることでなんとかやり過ごし「日常の世界」を取り戻そうとする先人たちの知恵に感動しました。

「異界」「非日常」と、「日常」を取り戻そうとする〝動き〟〝揺らぎ〟が人生なのかも知れない。
妊娠や出産の〝揺らぎ〟を安定させて「日常」に戻そうと、山で最も強いクマにあやかろうとした先人たちの感性が素敵。
赤子は「異界」に近い存在であると捉えられていたそう。常に不安定な人の旅路。だからこそ真っ直ぐ進む香車を御守りにするという発想力に目から鱗でした。

とりわけ印象的だったのが、こちらの「ショイカゴ」。葬式を行った座敷から「日常ではない状態」を集めて出す役割を担っているとのこと。

私がもっとも苦手な訃報〜葬儀のプロセス。悲しいし辛いし乗り越えたいなぁと思いつつ、口にするのは不謹慎だと思っていました。けれどこうして「ショイカゴ」という文化があったことを知り、多かれ少なかれみんな心のザワザワ感を抱き、それを取り払うきっかけを求めているのだなぁと感じました。
ある種の潔さを正当化するのも「異界」というものが人々の間で共通認識されていたからこそなのでしょう。

「四十九日」や「周忌」などの故人に向けた風習がある一方で、こうして「異界」をイメージすることである種潔く「非日常」をバッサリと断ち切る仕組みが作られていたことが興味深いなぁと思いました。

人生の節目に度々訪れる「非日常」。それがおめでたいことであれ辛いことであれ、多かれ少なかれ何らかのストレスを受けます(ちなみに私は、世間一般的にはおめでたいお正月の、あの非日常的な雰囲気があまり得意ではありません)。

こうした「非日常」を断ち切るのはどこか不謹慎であり(まず「ショイカゴ」は不謹慎だと感じられてしまうでしょうし、おめでたい雰囲気を断ち切る最初の1人になるのは勇気がいるでしょう)、ともすれば個人の自己責任論にも繋がってしまいかねません(「出産の不安を感じてしまうのは、その人の内面的なもののせい」などと言われたら、ただでさえ苦しい状況なのに一層追い込まれてしまいます)。

そうではなく、「異界」というイメージを用いることによって、こうした「非日常」は万人に共通して訪れるものであると捉えることができ「みんなこの状況では心身共に負担を感じるものだ」という安心感が生まれることでしょう。また、「異界」を理由して早く「日常」に取り戻すことが社会的に許容されるという効果も期待できます。

このように考えると、社会的なシステムとして「異界」が位置付けられていたことは興味深いなぁと感じました。

まとめ〜「異界」が少なくなってしまった世の中で〜

以上、簡単ではありますが「異界」展を通して感じ考えたことをまとめてみました。

先人たちは「異界」を想像・創造することによって〝あいだ〟を生み出して対話や物語が続いていく社会を創り、「非日常」のストレスを公に断ち切るきっかけを考え出してきました。だからこそ「異界」は人々の生活からは切っても切り離すことは出来ず、それらとうまくやっていくために様々な知恵を振り絞ってきたのだろうと思います。

どこかチャーミングな妖怪たちの絵。「異界」「不確かさ」「非日常」を単に恐ろしいものとしてだけでなく、「ちょっと動揺するけれど大丈夫だよ〜」という精神的なゆとりを生み出す効果があるように感じた。

現代社会において「異界」はどんどん少なくなっています。「ホント」か「ウソ」かを「数値を用いて」「エビデンスを集めて」「客観的に証明する」文化には、〝あいだ〟から対話や物語が連鎖していく〝動き〟が生まれる余地はありません。その結果、例えば「河童は、いるか、いないか」→「います!その根拠は〜です!以上!」と「いません!その根拠は…です!以上!」の双方の主張が生まれ、どちらかが「正史」になるまで闘い合うという不毛な対立が生まれるだけです。

そうではなく、「異界」があることによって生まれる対話や共創造性、良い意味で「言い訳」として用いることである種の開き直りをして再び日常へと向き合う強かさなどがもう少し大切にされたら、人々も「異界」の住人たちも、もっと生きやすい世の中になるのになぁと思いました。

大切なのは「河童がいるか、いないか」を証明することではなく「河童という存在や『異界』、〝あいだ〟をイメージしながら、新たな対話や物語を紡いでいく」こと

今回の展示を通して感じ考えた要素を教育や保育、これからの人生の中に取り入れ、新たな対話や物語を紡いでいきたいです。

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