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ロシアの農奴劇場って?

 サンクト・ペテルブルクに住んでいれば一度は聞いたことがあるかもしれない「農奴劇場」。皆さんは行かれたこと、あります?

 まだ、私がサンクト・ペテルブルク音楽院の学生だった頃、知人の紹介で研究者の人と知り合うことが多かった。その中で、愛知県立芸術大学の音楽学研究者Tさんが研究していらっしゃる内容がとても面白かったので今でも覚えている。

 タイトルの「農奴劇場」だ。

 なにやら物騒な名前の劇場だ。これは、一つの劇場の固有名詞ではなく、その当時多く存在した各領主の館に私設で作られた劇場のことだ。奇しくも日本からの最初の使節団(江戸幕府が派遣した文久の遣欧使節団)がサンクト・ペテルブルクに来る1年前、1861年に農奴解放令がアレクサンドル2世によって出されるまで隆盛を極めた劇場文化である。

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 農奴とは、領主に支配される領地内で働く(そこから逃れられない)農民(奴隷に近い)なのだが、この「農奴劇場」は領主が自分の土地を持たない人々(つまり農奴など)の中から歌唱や楽器演奏に優れた者を集めて私設で作られたものだ。劇場の大きさはとても小さくプライベート劇場なのだが、凝ったものだと大劇場の装飾や馬蹄型の劇場を模倣して絢爛豪華で、私用に作った劇場としてはとても贅沢なものもある。

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 ネフスキー通りからフォンタンカ河を夏の宮殿側に折れ、国立図書館の隣にあるシェレメチェフ宮殿は、今でも劇場として貸し出しているので運が良ければその会場を堪能できる。ピョートル大帝の盟友ボリス・シェレメチェフが18世紀初頭に建て、代々シェレメチェフ一族が居住してきた。ひ孫のドミトリー・シェレメチェフはサンクト・ペテルブルク・フィルハーモニー協会の立役者の一人としても知られる。

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 また、劇場の豪華さで言えば、モイカ河沿いのユスポフ宮殿にある劇場の劇場のミニチュア感もあり素晴らしい。(上の写真:ユスポフ宮殿内の劇場)

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 さて、シェレメチェフ宮殿の農奴劇場の規模がどれくらいだったかを知るのに、劇場専用に登用されていた使用人の1789年当時の人数をここに書いてみる。

 第1ヴァイオリン 4(コンサートマスター含む)

 第2ヴァイオリン 3 (+この他ヴァイオリン見習いが5)

 ヴィオラ 2

 チェロ 3

 コントラバス 2

 フルート 2 (+見習い2)

 オーボエ 2 (+見習い2)

 クラリネット 2 (+見習い1)

 ファゴット 2 (+見習い1)

 ホルン 4

 トランペット 2 (+見習い2)

 ティンパニ 1

 歌手 32

 グースリ奏者 1

 指揮者 1

 踊り手 26

 などなど、演奏・出演陣の他、舞台大道具、衣装、画家、理髪師など劇場専門の使用人の合計が164名。オーケストラも本格的で、小規模な2管編成だ。これだけの規模の楽団を持っていればかなりのレパートリーをカバーできる。しかも面白いことに「見習い」も登用されており、音楽院設立以前の音楽家育成の一助になっていたことがうかがい知れる(ロシア最古のサンクト・ペテルブルク音楽院は1862年に開学)。

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 この農奴劇場を自宅宮殿に作ることが流行し、オペラ、バレエ、演劇などが催され貴族の生活を彩った訳である。その後革命を経て劇場自体は「箱」として残ったのだが、農奴劇場が培った私的劇場としての文化は廃れてしまった。西側諸国からしてみれば辺境の地であるロシアという場所で、文明を感じられるものが貴族には必要だったのだろう。自宅に文明を置いておく数少ない手段だったのかもしれない。ベルサイユより豪華にすることを主眼に造られた夏の宮殿を始め、西側諸国に「辺境の地」と言わせない努力が、この時期の貴族文化の礎になっていたことを感じさせる。

 サンクト・ペテルブルク内には現在劇場として利用しているところも多いので、その時代の瞬間的な輝きを体験しにぜひ一度は足を運んで見て頂きたいものだ。by清水雄太


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