夏の思い出

社労士試験を、まさに直前に控えた6月上旬、
祖父が亡くなった。
長年、下半身不随で寝たきりの状態で、
晩年は施設で過ごし、感染症拡大などの影響から近年は会うことが難しかった。

本当に直前期で、忘れもしない、大原の白書対策の講義が視聴できるとか、できないとかいう時期で
「え、通夜って何すんの?オールナイト トレ問?」とか考えた。

一応、名誉のために伝えておくが、こんなことを言って
つらくない訳がないのだ。

幼少期は祖父母の家に預けられることも多く、祖父はたいそう私をかわいがった。

祖母は、私が社会人になってスグに亡くなっている。
それこそ、祖父が下半身不随になり、介護に追われ、あれよあれよという感じだった。

そのときの、祖母の死というものは「死は穢れ、忌み嫌うもの」という印象を私に強く与えた。
祖母は、旅立つ前に、まるでハリウッド映画で女優が入っていそうな夢のようなバスタブで、泡風呂に入れられ身ぎれいにされた。
死というものをキレイキレイに、オブラートにつつむような泡風呂だった。

まだ生きて楽しいところに行きたかった気持ちも
美味しいものを食べたかった気持ちも
泡となって消していった。

そこから数年、祖父は施設で過ごすのだが、少し気難しいところがあり母を度々困らせた。
冗談で
「ねぇ早くおばあちゃんが迎えに来ないかしらね。でも、おばあちゃんも長年苦労したんだもの。もう少しゆっくりしたいかしら」と言っていた。

一応、名誉のために言っておくが、とは言っても母はちゃんと、祖父が好きなまんじゅうを持って施設に通っていたし、緊急時の対応で昼夜問わず病院に駆けつけたりしていた。

祖父も、身体がそうなので、何度も病院に運ばれては
今夜がヤマです的なセリフを幾度となく言われていたが、
数日経てば持ち直し、施設に戻るということが続いていた。

もはや、今夜がヤマです詐欺 というように家族の中でも受け止められていたほどだった。

そのときもそうで、ヤマですと言われたけど、またどうなんだろうね と
母から連絡が入っていた。

私は子供をお風呂に入れながら、どうなんだろうね、、、と考えていた。
子供は、毎日保育園であったことを教えてくれるのだが、その日はこんなことを話し出した。

「あのね!今日、クラスの●●君が、窓の外で、(子供の名前)ちゃんの おばあちゃんが見てるよ~って言われた」

そんな訳はない
彼女のおばあちゃん、つまり私の母は働いており、また保育園にも入れないためだ。

(おばあちゃんって、私の、おばあちゃんじゃない・・・?)

直観的にそう思った。
私自身に霊感などはないが、子供は敏感というし。

ちょっと、今回は、覚悟した方がいいかもしれない
と思って、やはりその2日後に祖父の訃報が入ったのだった。

母の「おばあちゃん迎えに来ないかしら」というのが、耳に残って離れない。
迎えにきたんだ・・・
その前に、ひ孫の様子を見に来たんだ・・・!

娘を、祖母がねむる場所へ参らせたことがなかったのだが、そうして見守ってくれているとは。いや、やはりお参りはすべきだった、自分からひ孫の顔を見せに行ってあげていれば、よかった・・・

正直、宗教観も薄く、故人 先祖を敬う気持ちに対してさほどピンときていない人間だったが、おばあちゃんから私、そして子供にという、先祖からの繋がりを感じた。



祖父は痛みや未知のものを、たいそう怖がる人だった。
死というものに対して、極端に恐れていたことも、わかる。

祖父の葬儀が行われた日は、しとしとと雨が降っていたが、焼き場に向かう際、激しい雨に見舞われた。
あの、癇癪持ちの祖父が顔を真っ赤にして怒っているように、雨が窓をたたきつけた。

(ああ、こわいんやな・・・)

わかる。私もそうだもの。
癇癪もちで、感情の起伏が激しく、極度のこわがりで。私もそうだから。

焼き場から一度、式場へ戻る車中も、祖父の恐怖が伝わるようで、少し緊張して車に揺られていたのだが、
道中、すっと、雨が止んで嘘みたいに晴れ間が広がった。

私もさっきまでの緊張から解き放たれた。

その後、小さくなってしまった祖父と対面したが、緊張や苦しみから解放された思いでいっぱいだった。
何年も、下半身不随で寝たきりだった祖父。
その身体から、やっと解放されたのだと思うと。

あれから1年が経ち、結局感染症の広がりや何やと理由をつけ
私も娘もお参りに行けていない。
あのとき、強く思った感情だったのに。日々に忙殺されて、1年経っていないのに、だ。

この夏には、ひ孫を連れて、あいにいくからね。

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