見出し画像

「写真家を志す人へ あるいは自伝的メッセージ」Peak2Peakのデジタル写真講座 番外編1

<my history>
1981年7月、23歳だったボクはある決心をした。通っていた大学を辞めて東京へ出てカメラマンになろう。6年あまり住んだ京都の街。不要な家財は実家に送り、大きなバックパックひとつに荷物を詰め込んで、文字通り片道切符で夜行列車に乗って向かったのは、東京六本木だった。
六本木スタジオ」。それは東京で仕事をするプロのフォトグラファーなら必ず知っている、特別な存在。当時から有名だった篠山紀信さんや立木義浩さんを始めとする超有名フォトグラファー御用達のスタジオだった。
当時の六本木スタジオは、スタジオで働くアシスタントはすべて住み込みで、三食と狭い寝床が提供される代わりに、給料は支払われない無給の、謂わば「弟子」「書生」のような扱いだった。1980年大学5回生の冬、今は廃刊なってしまった硬派の写真雑誌『カメラ毎日』に小さく載っていた六本木スタジオのアシスタント募集の広告を見たのが、その後のすべての物語の始まりだった。

1981年当時六本木スタジオは、六本木ヒルズの近くに今でもあるハリウッド化粧品の近くにあった。スタジオのあった場所は今はヒルズの一角で跡形もない。現在はは六本木交差点の近くに引っ越している。個人的に縁起がいい月だとその頃から思っていた7月。何かを始めるならこの時期だと思い、梅雨が明けたばかりの京都を出た。夜行列車を東京駅で降りてそのまま六本木へ向かい、スタジオのドアを明けた。

マネージャーのN氏とは、事前に一回だけ面接で顔を合わせていた。狭い事務所とその奥にある台所兼食堂が当面の居場所だと教えられた。まずは先輩たちの三度の食事を作ることが仕事だと告げられた。夜は食堂の床で寝るようにとも。ここがどんな場所か、ある程度の覚悟はあったが、先輩格のアシスタントたちがペンキだらけのボロ雑巾のような格好で、走り回っている姿を見て、改めて身震いがしたのを思えている。

事務所の壁には大きなポスターが貼ってあった。十文字美信さんのコダックフィルムの全倍ポスターだった。やはり六本木スタジオのアシスタントだった十文字さんは、若手フォトグラファーとして活躍していた。(十文字さんが六本木スタジオに入所したのは1968年、その後篠山紀信さんのアシスタントになりすぐに独立して活動しはじた。)「君も十文字さんみたいになれるよ」マネージャーのN氏はそう言った。もちろん、若いボク自身も無謀にもその気だった。

<京大ガラパゴス>
カメラ好きの父親のせいで一眼レフカメラ(ペンタックスSP)を持っていたものの、とくにカメラ小僧だったわけでもないのに、写真の道を選んだのには、いろいろな偶然が重なっている。
入った大学は京都大学農学部。そもそも京大を選んだのは、理学部の動物行動学教室に行きたかったからだ。行動学、人類学の研究者になる、それが漠然とした夢だった。当時、理学部動物行動学教室には日高敏隆教授がいた。今西錦司氏も存命中で、京大にはその流れを組む人類学者も多かった。
高校三年生でも音楽バンド活動に精を出して受験勉強もロクにしなかったから、一浪覚悟で、理学部ではなく偏差値の低い農学部を試しに受けてみた。それでも絶対落ちると思い、合格発表前に京都の京大専門の予備校に入学手続きまでして、合格発表を見に行ったら合格していた。目論見は外れて、とりあえず入るだけ入ってみるか、そうやって入った大学だった。
一年目は平穏無事にすぎた。友人に勧められて漕艇部に入ってボートを漕いだり、演劇サークルに入って芝居をかじったり、クラスメートとバンドを組んで学園祭に出たりと、学生生活をエンジョイした。もう一度理学部を受け直すという根性もなく、ずるずると学生生活を送った。

2年目になると、当時教養部にあった社会学研究室に出入りするようになった。人類学者の米山俊直教授がそこにいた。優しくてハンサムで面倒見の良い米山教授の元には、多くの学生が集まっていた。読書会を開いたり、院生の調査報告会に出席させてもらったりと、授業だけでは得られない経験をさせてもらった。そのうち学生たちでサークルを立ち上げた。「アフリカ研究会」みたいな名前だった。京大は類人猿研究のフィールドをタンザニアに持っていて、現地調査に入った研究者たちの報告会などで刺激を受けて、いつか自分たちも、と研究者の卵たちは思ったわけだ。その後「アフリカ研究会」は、関西の企業などから支援金(今でいうクラウドファンディング)を集めて、西アフリカ(ケニアとタンザニア)との交換留学活動を行なった。このサークルからは、言語学、人類学、社会学などの研究者になった学生が多い。
当時京大では国立大学の学費値上げ反対闘争、竹本処分粉砕闘争などがあって、70年頃をリバイバルしたような集会やデモが行われてた。ヘルメットを被り白衣を着て白タオルを顔に巻いた目つきの鋭いお兄さんお姉さんたちが学内を闊歩していた。研究室にはその手の政治意識高い系の学部生や院生も出入りしていた。1970年代も後半になりシラケ世代とか言われて若者が政治運動から無縁になっていた時期に、全学集会だのデモだ。新鮮だった。さすがガラパゴス京大、「進化」が止まってタイムスリップした世界だった。
とくに問題意識があった訳ではなかったが、物見遊山で出かけた集会や遠巻きにしたデモは、みょうに馴染んで楽しかった。その頃の京大は全学自治会のもとにそれぞれの学部の自治会がぶら下がっていたが、全学自治会同学会も学部自治会も、いわゆる「過激派」セクトの影響を受けずに、「ノンセクト」を堅持していた。現役の学部学生の他に、70年全共闘運動を経験した院生や正体不明の年配学生がいて、デモの隊列の組み方、立て看板の書き方、アジ宣説の仕方などをレクチャしていたのを思い出す。
気が付くと、そう言った活動の中心ではないが、シンパ的な存在だった「京大新聞」というサークルに入っていた。「アフリカ研究会」は、会の運営方針をめぐって中心メンバーと対立して辞めていた。京大新聞は由緒伝統ある学生新聞で、発行は月2回。大学の公認サークルでもあり、今も続いている。そしてボクは、その後の大学生活のほとんどを、この京大新聞で過ごすことになる。写真や報道、そして映像に興味をもつきっかけもこの京大新聞時代にあった。

<『車に轢かれた犬』>
ボクは生涯これまで二つの映画に大きく関わっている。ひとつ目は『車に轢かれた犬』(1979年 日本 自主制作)であり、もう一つは太陽(2005年 ロシア)だ。
『車に轢かれた犬』は、当時京都に住んでいたモリ・トラオレ(Mory Traore)氏が監督を務めた自主制作映画だ。モリ氏は、コートジボアール出身。フランス国立演劇学院修了後、フランス人ガールフレンドと一緒に京都へやってきた。今は母国の国立アビジャン大学教授である。モリ氏は「差別」をテーマにした映画の構想を京都大学の学生や教授たち、関西の部落解放同盟のメンバーたちに説いて回って協力を得て、自主制作で映画を作ることになった。
当時のボクの彼女は文学部の仏文だったので、モリ氏の彼女と繋がりがあった。映画作りで助手を探していると言うので、面白半分で手伝うことになった。要は雑用係、今風に言えばアシスタントディレクターである。
京大新聞で新聞を作りながら、映画の現場に通う日々が始まった。授業や講義は全く出なくなっていた。進路をそろそろ考えなければならなかったが、22歳の男子には茫漠とした未来が、それも既定路線ではない未来が、待っていた。ちょうど「モラトリアム」という言葉が流行り始め、漫画では「バイト君」が一斉を風靡していた。
『車に轢かれた犬』は、一足先に公開されて話題を呼んでいた映画『keiko』(1979年ATG クロード・ガニオン監督作品)のスタッフが撮影に当たった。クロード・ガニオン監督は当時京都在住で、撮影現場にも時々顔を出してくれた。カメラは16mmのシネカメラだった。陽気なカメラマンのアンドレ・ペルチエの助手をしながら、ボクは映像の現場、「ロケ」というものを初めて経験した。
その時、撮影現場のスチール(スチール写真 記録写真のこと)を撮りに来た人がいた。京都芸大に通う学生で年上だったが、一眼レフカメラを構える姿がカッコよく、その時、写真家というものを初めて意識した。それからしばらくして、父からもらったペンタックスSPでスナップ写真をとるようになり、撮ったモノクロフィルムを自分で現像するために、小さな暗室をアパートに作り、見様見真似で暗室作業を始めた。

ここから先は

2,131字 / 1画像

¥ 200

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?