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絶対に振り落としてはいけないもの――ポルノグラフィティ『ハネウマライダー』に関する雑感


 2006年6月28日にリリースされた、ポルノグラフィティのシングル『ハネウマライダー』。ライヴではオーディエンスがタオルをぶんぶん振り回して一体感を得ることができる曲として出番の多い曲だ。映像作品でステージ側からの景色を見ると、掲げられるタオルの柄が本当に多種多様であることに驚かされる。多くは最新のグッズのものだが、過去のグッズの柄も散見されて、観客席側はとてもカラフルだ。その彩りはそのままポルノグラフィティが重ねてきたライヴの歴史であり、舞台に立つポルノグラフィティの二人には、この光景はさぞかしぐっとくるシーンなのだろうと思う。

 ポルノグラフィティを語る上で欠かせないこの曲は、今から16年前の今日リリースされた。リリースされた頃のわたしは大学生で、ポルノグラフィティとの距離がそこそこ離れていた時期だった。わたしにはもっと大切なものがたくさんあって、好きな音楽もポルノグラフィティとはまったく違っていて、ただ昔馴染みのアーティストであるというだけで、ポルノグラフィティのCDを買っていた。

 そんな距離の取り方をしていたものだから、この曲も他の曲と同じように、長らく聴き流していた状態だったし、何なら特に好きな方でもなかったように思う。「僕」が「君」と出会って生き方を変えたという、よくあるボーイ・ミーツ・ガール的な歌詞を軽快に歌い上げるいつものボーカルだ。まるで故郷のように安心して聴ける、退屈な曲だとずっと思っていた。


 でも、大学を卒業して、社会人になって、それなりに働いて、結婚して働いて、子ども産んで働いて、また子ども産んで働いて、そうやって人生のライフステージを駆け上がりながらポルノグラフィティに再会して、改めてこの曲を聴いたとき、涙が止まらなくなった夜があった。これは今のわたしの曲だと、強く思った瞬間があった。

Brakeが軋むなら、止まるのを諦めて。
Bikeと呼べなけりゃ、名前はどうでもいい。

 若い時って、無鉄砲で向こう見ずで、ブレーキが壊れたバイクにも恐れず乗ってしまう躊躇のなさがあるものだけど、それって後になってから「ああ、あの頃はあんなに恐れ知らずだった」と思うもので、若いさなかには気づかなかった。ブレーキが壊れたバイクにはもう乗れないと気づいた瞬間に、わたしも「空を裂く号令」を聞いた。

 それは、わたしを「おかあさん」と呼ぶ声だった。わたしをわたしの名前ではなく「おかあさん」と呼ぶ、わたしが守らなければならない存在に気づいたとき、わたしは自分のバイクに自分以外のいきものを乗せなければならなくなった。そうなればもう、ミラーもちゃんと取り付けて、後ろに乗せたいきものの言うように、それらの行きたい場所へ、バイクを走らせなければいけないじゃないか。

大切なものを乗せて走りたいなら、
生まれ変わっていかなければねえ。

 わたしはといえば、働き方を変えた。着る服を変えた。髪型も表情も考え方も、生活スタイルも変えた。前と同じようには生きられないことがつらかったことも何度もあった。でもそれは、わたしのバイクに大切なものを乗せたからだ。わたしの今までよりも大切なものを、わたしの人生に加えたからだ。
 そして、その日々はいつか終わる。大切なものたちはいつかわたしのバイクから降りて、自らの人生を歩みだす。

Days of the sentimental を駆け抜けたい。いっそ自ら巻き込まれて。
明日の忘れ物は今日にある。

 このフレーズを聴くと、いつも思い出す詩がある。『最後のとき』という、作者不詳の詩だ。

ご飯を食べさせてあげるのはこれが最後、
というときがやってくる
長い一日のあと子どもがあなたの膝で寝てしまう
だけど眠っている子どもを抱くのはこれが最後
子どもを抱っこ紐で抱えて出かける
だけど抱っこ紐を使うのはこれが最後
夜はお風呂で髪を洗ってやる
だけど明日からはもう一人でできると言われる
道を渡るときには手を握ってくる
だけど手をつなぐのはこれが最後
夜中こっそり寝室にやってきてベッドにもぐりこんでくる
だけどそんなふうに起こされるのはこれが最後
昼下がりに歌いながら手遊びをする
だけどその歌を歌ってやるのはこれが最後
学校まで送っていけば行ってきますのキスをしてくる
だけど次の日からは一人でだいじょうぶと言われる
寝る前に本を読み聞かせて 
汚れた顔をふいてやるのもこれが最後
子どもが両手を広げて 
あなたの胸に飛び込んでくるのもこれが最後
だけど「これが最後」ということはあなたには分からない
それがもう2度と起こらないのだと気付くころには
すでに時は流れてしまっている
だから今、あなたの人生のこの瞬間にも
たくさんの「最後」があることを忘れないで
もう二度とないのだと気付いてはじめて
あと一日でいいから、あと一度きりでいいから、と切望するような
大切な「最後のとき」があることを

 わたしの現在の毎日は、まさにDays of the sentimental の真っ最中で、育児に限らず「今日が最後」であることがたくさんあるのかもしれない。でもそれは明日になってみないと分からないことで、忘れてしまっても取りに戻ることはできない。子どもたちといる日々は本当にハネウマのように乱暴な風で、ここに留まることを許してはくれない。だからこそ、このいきものたちと一緒にいる日々は美しく輝く。

 もちろん、そう思える瞬間ばかりじゃない……どころかそう思える瞬間は一日の終わりのほんの一瞬だったりする。もう少し子どもたちが離れていったら、感傷的になったりするのかもしれないが、今のところそういう気配はない。まあそれまでは、ちゃんとブレーキをじゅうぶんに利かしながら安全運転で生きてやりますよ。しっかり振り落とされずにしがみついてなさい。途中じゃ降ろしてやらないぜ。



 ところで、この曲がライヴで演奏される時、「僕」はポルノグラフィティで、「君」はライヴに来ているオーディエンスになぞらえるように歌ってくれるのだけど、そういうふうにこの曲の意味を受け取れるようになったのは、一昨年の配信ライヴでちゃんと自分もリアルタイムでオーディエンスになれてからだったから、この曲の真骨頂はやっぱりライヴで演奏される時なんじゃないかと思うんだよね。リリースから16年経っても双方から愛され続けるこの曲を、いつか声を出して歌えるようになればいいなあ。そしたらきっと、いろんなことを思って、観客席で涙が止まらなくなってしまうだろうな。


乗り心地いかがでしょうかあざやかな海に向かってアクセルを踏む

永遠はどこにもなくてうつくしい一瞬だけを目指していけば

偶然で世界は動き出すきみと出会えた岐路に前途を祝して!



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