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science girl

人間のマイナス的思考の起因はすべてさみしさだ、と、理科室の机に腰掛けながらアオイは思う。
さみしいから好きじゃないけど付き合ってみた、さみしかったから浮気をした、わたしをさみしくさせたあなたが悪い。

「ばっかみたい」

脚の間に箒を挟んで、その上に頬をつきながら毒づいてみる。だれに言ったわけでもない。ただの独り言だったのに、にやにやとした声が後ろから返事をする。

「堂々と掃除さぼっといて、何がばかみたいだって?」

心臓が跳ねる。いきなり声をかけられて驚いたせい、アオイは自分に言い聞かせる。
彼女は、理屈の通らないことはだいきらいだった。
ぱっと振り返ると、肩まで伸びたポニーテールが揺れる。強い目線の先には、白衣を着てにやにやとした男が立っている。

「さぼってるわけじゃないもん」
「なに、数学の試験の点数のことでも憂いていたの?」
「な、」

なんでそれを、と言う間もなく、たくさんの参考書を抱えた男がアオイの横を通る。

「……どうせ、トヨセンから聞いたんでしょ」
「きみは化学の試験は抜群にいいのに、どうして数学はあんなにできないのかなあ」

トヨセン、というのは数学の教師である豊川の愛称である。
化学の授業を勤める赤沢は豊川と仲良しで、アオイが用を作って職員室に行くたび、いつも楽しそうに談笑していた。豊川といるときの赤沢は必要最小限しか喋ってくれないので、アオイにとってハズレだった。

「化学と数学は別物じゃないですか」
「根本的な部分は同じだよ。アオイは暗記に優れているんだから、むしろ僕にとってはあんな点数ありえないな」

トヨセンへのせめてもの反抗、だなんて言ったら笑ってくれるだろうか。
ふう、とため息をつき、アオイは腰掛けていた机から降りる。
自ら理科室の掃除担当を立候補してくれたのに、そうやってサボってばかりいるのも感心しないな、などという赤沢の小言を無視しながら、アオイは黒板へと目を向ける。
黒板の隅では、卒業まであと29日、というカウントダウンが始まっていた。カラフルなチョークが皮肉に見える。

アオイは黒髪にストレートロングの勝気な少女で、友達は3組にいるリコだけだった。
二人は毎日昼休みを一緒に過ごす仲で、アオイとは対照的なあっけらかんとした性格が一緒にいて楽だった。
1年生の終業式が間近になった頃、リコはいつもの明るい調子でアオイに問う。

「アオイちゃんはさ、好きな人つくらないの?」

今まで恋愛なんて無縁だったアオイにとって、まるで興味のない話だった。けれど無下に扱うわけにもいかないから、うーん、と考えるふりだけして答える。

「わたしはあんまり興味ないかな、特にいい人も見つからないし」
「そっかあ、恋はするものじゃなくて落ちるものだもんね」

いつか何かの歌で聴いた、恋は病、という言葉が不意に過る。
そんな人に振り回される病、冗談じゃない。
心の底からそう思っていたはずだった。

人生は何が起きるかわからないものだ、と、2年生になったばかりの春にアオイは思い知らされることとなる。
赤沢は推定20代後半で、一目見ただけでは印象にも残らないような薄い顔、その優しい笑顔とは対照的な低い声が特徴だった。
アオイはそれまでだれかに興味を持ったことなんて一度もなかった。それなのに、小テスト返却の際に呼ばれた「蒼井 桜」という低い声がやけに耳に残った。
アオイはもともと根っからの文系である。ひどい点数が記された紙を手渡す赤沢は苦笑いをしていて、アオイは顔が赤くなるのをその用紙で隠した。その晩は眠れなくて、まるで赤沢の細い瞳に取り憑かれたような気分だった。


時は流れて、白藍の空が広がる2月、アオイは卒業を迎えようとしていた。

「先生」

アオイの呼びかけに、赤沢は振り向くことなく、ん、と返事をする。

「わたしの最初の試験の点数、覚えてる?」

ここはべつに田舎の学校でもないし、クラスだって7組ある。いち生徒の、しかも2年前の試験の点数なんて覚えているわけがない。
馬鹿な質問だ、とアオイは自嘲した。誤魔化すように、とっくに掃除の終わった床を掃くふりをした。
一瞬の間があいて、振り向いた赤沢はにやにやとした顔をしていた。

「14点」

アオイは、顔がかあ、と赤くなるのがわかった。
理屈の通らないことなんて、だいきらいなはずなのに。

「最初はあんなにやる気なかったのにな、今じゃ化学はアオイを超えるものはいないよ」

その言葉に他意が無いなんて分かりきっている。
それなのにどうしようもなく鼓動は高鳴って、胸が張り裂けそうだった。

赤沢に恋をしてから、アオイは大嫌いだった化学を必死で勉強した。
教えてもらう名目で職員室にも通い詰めた。赤沢が自分のために優しく教えてくれる時間が、いとおしくてたまらなかった。

「化学の楽しさを分かってくれて、僕はもう教師冥利に尽きるよ」

まさか生徒にこんなにも惚れられているだなんて、化学バカであるこの男は一生気付かないんだろう。
アオイは赤沢の横をすり抜け、箒を持ったまま無言で理科室を立ち去ろうとする。

「アオイ、掃除の続きは」
「今日用事あったんだった、明日やる!」

授業が終わってまっすぐ理科室に向かって1時間。
掃除なんてとっくに終わってるよ、ばーか、と毒づくアオイの目には、涙が浮かんでいた。


学校最寄りのバスはとにかく本数が少なくて、アオイが着いた頃はちょうどバスが出発したばかりだった。
次のバスまであと30分近くある。停留所のベンチに腰掛けて、なにもかもが上手くいかない苛立ちに任せて、ポニーテールを解く。

『ねえ、桜!わたしこの前見ちゃったんだけど、』

それはちょうど職員室に通い始めて、試験の点数が40点を超えた頃のことだった。
昼休みに人気のない階段で、リコは菓子パンを頬張りながら興奮した様子だった。ミーハーな彼女だから、どうせまたクラスの誰かと誰かがデートしてたとかそういうくだらない情報だろう、とアオイは興味も無かった。

『化学の赤沢がさ、彼女らしき人と歩いてたよ!』

そこから、どんな返事をしたのかうまく思い出すことができない。
ただひとつ、意味のない質問だと分かっていたのに、長い黒髪で顔を隠しながらアオイは訊いた。

『ふーん……どんな人?』
『小柄でポニーテールの、活発そうなひとだったよ』

真似をしても意味なんてないと分かっていた。
翌週から、アオイはポニーテールを作って学校へ向かった。リコは先週の会話内容なんて覚えていないらしく、『髪型変えたんだ!イメチェン?』と、無邪気に声を掛けるだけだった。


どうでもいい記憶が消せる薬があればいいのに。
いくら腕時計に目を遣っても、時間が経つスピードは変わらない。彼と過ごす体感時間と同じとは思えないくらいに、彼女は手持無沙汰だった。
だるいけど歩いて帰ってしまおうか、と立ち上がろうとした矢先、耳馴染みのある声が聞こえた。
ついに幻聴まで聴こえるようになってしまったか、と自虐するアオイを裏切るように、自転車を押した赤沢が立っていた。

「アオイ、まだ帰ってなかったんだ」
「……バス、行っちゃったばっかで……」

いつも通りに話さなければいけないと思うほど、声はしどろもどろになる。
あと15分かあ、と普段の調子で赤沢はぼんやりと呟く。

「じゃあ、後ろ乗っけてくか!」
「え、」
「……なんてことできるわけないけどね」

彼の調子に呑まれてしまうことがアオイは大嫌いで、それと反比例するように鼓動は速さを増す。
会えてうれしいはずなのに、一刻もはやくどこかへ行ってほしい。そんな願いをも彼は裏切る。

「15分もひとりで退屈でしょ、一緒に待っててあげるよ」

自転車を傍らに停め、赤沢はアオイの隣に腰掛けた。
アオイの顔は真っ赤で、もう二度と目を合わせられないと思った。この顔を見られたらすべてばれてしまいそうで、怖くてたまらなかった。
二人の無言の時間は続く。こんなの一緒にいる意味ないじゃん、とようやく気付いたと同時に、あれ、と赤沢が声を出す。

「なんか雰囲気違うと思ったら、アオイ、髪おろしてるんだね」

思わず顔をあげてしまった。
赤沢の細い目と視線がぶつかって、頭の中がぐちゃぐちゃになって、泣いてしまいそうになるのを必死でこらえた。

あなたに少しでもかわいいと思われたくて、ポニーテールにしていました。
冗談でも、そんなことを言える女の子になりたかった。


「先生」

理屈の通らないことも、生産性のない話題も大嫌いなはずだった。
自分の「蒼井 桜」という、なんだか不釣り合いな名前も嫌いで、言ってしまえばこの世に興味のあるものなんてなかった。
それなのに、この世界に突如踏み込んできた掴みどころのない彼に、わたしはどうしようもなく恋をする。

「桜、好きですか?」

突拍子もない質問だ。
なんで急にそんなことを、と聞かれたら、もうすぐそういうシーズンじゃないですか、とか適当に誤魔化そう。アオイは元々勉強のできる頭ではあるから、咄嗟のシュミレーションは得意だった。
それをも彼には一切通用せず、細い瞳がアオイにまっすぐ向けられる。

「うん、好きだよ。」

アオイは呆気にとられた。しばらく無言の時間があったようにも感じるし、一瞬だったようにも思える。
バスのやってくる音が聞こえる。ようやく来たね、と赤沢はいつもの調子で呟きながら立ち上がる。

「気を付けて帰るんだよ」
「……先生」

バスが後ろまで来て、扉の開く音が聞こえる。定期は既に手にしている。
ん?という顔で待つ彼と、乗るなら早くしてくれ、という運転手の無言のプレッシャーに圧されたせいだと、のちに彼女は思った。

「好きです」

完全に言い逃げだった。赤沢の返事どころか、顔を見ることもなく、アオイはバスへと乗り込む。
バスはがら空きで、逃げるようにして一番奥の席へと駆けた。
心臓は高鳴りをやまない。明日からどんな顔をして理科室に行けばいいのか、もう会いたくなんてない、そんな感情に押しつぶされてしまいそうで苦しかった。
他に乗客はいないのに、世界中のだれかにばれてしまいそうで怖かった。どうして涙が出てくるのか、先生に教えてほしかった。
どうすることもできない恋心を抱えた彼女を乗せて、バスは走り出した。


理科室少女 / TaNaBaTa

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